今月の法話 2024年2月

行く先は弥陀の胸の中

 最近は本当に長寿の時代になったと実感することが多くなりました。昨年、うちのお寺の団体参拝旅行に九十代の方が二名参加され、三泊四日の全日程を元気にこなされました。とはいっても永遠に生き続けることは出来ません。いつかは人生の終わりを迎えねばならない時が来ます。さて、あなたは命終の後、どこに行くつもりでしょうか…。
 平安時代の歌人である和泉式部は幼い愛娘を亡くしています。その際に創った歌が
「子は死して たどりゆくらん 死出の旅 道知れずとて 帰りこよかし」
というものです。我が子は死出の旅に出ていった。しかし、一体どこに行っていいかわからないと、この母のもとに帰って来てくれぬものか、という切ない母心を歌ったものです。
 ご門徒さんのお宅にお参りに行った時に、お年寄りが仏壇に向かって話しかけているのを何度も見てきました。若い時は、「もうその方は亡くなっているのになー」、としか思えませんでしたが、そこには「死者と共に生きる」世界があったのです。
 日本では人が亡くなると、お葬式というお弔いをします。初七日法要・四十九日法要、月忌参りと折々の法事、という風に丁寧に仏事を積み重ねていきます。こうした宗教儀礼はキリスト教には無いそうです。中島岳志氏が述べているように「死者と共に生きる」世界の中で生きる、独特の日本的文化的生活を営々として続けてきたのが私達の先達だと思うのです。そこには生者の論理だけではなく、死者たちが紡いできた歴史や伝統や文化を大切に、それらと共に生きんとする豊かな精神風土がうかがわれます。
 肉親が死ぬというのは、ましてや我が子に先立たれる親の悲しみはどれだけ深い事でしょうか。「帰って来てほしい」と思っていても帰ることはない、と知りつつこの歌を詠まずにおれなかったのが和泉式部の心情だったのでしょう。しかし彼女はその後にこうも詠んでいます。
「夢の世に あだにはかなき身を知れと 教えて帰る子は知識なり」
 夢の如く儚(はかな)い我が身である、という事をこの母に教えるためにお浄土から来てくれ、またお浄土に帰っていった我が子は仏さまであった、という真に尊い歌です。「死んだらお終い」ではないのです。
 死後、私達の行先は黄泉(よみ)の国でも迷いの世界でもありません。光あふれる阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただく有り難さを想い、「ナンマンダブツ」とお念仏を申す日暮らしを送りましょう。

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