今月の法話 2023年11月

海のもの山のもの いのちを食す「いただきます」

 随分前に家族でファミリーレストランへ行った時の事です。ふと、どれくらいの家族が「いただきます」をしているのか気になって、それとなく周りを見ていますと、多くの家族が出された食事をすぐさま食べ始めていました。「いただきます」と挨拶しているのは少数派であり、両手を合わせて「いただきます」と挨拶をしている家族は殆どおられなかった事を覚えています。信仰の厚い土地柄や高い年代層であれば状況は違うのかもしれませんが、そんなことがありました。「いただきます」という挨拶が広まった背景には浄土真宗の影響があるという説があります。以前は各家庭にお仏壇があましたが、核家族化が進み、お仏壇や伝統的な宗教を 信仰するという事が相続されずらい時代にあって、「いただきます」という挨拶はますます聞かれなくなっていくのでしょうか。
 言うまでもなく、私達の食卓は「あらゆる命」によって成り立っています。海の命・山の命・田畑の命や動物の命…。ありとあらゆる命の犠牲無くしては一日たりとも生きていくことが出来ないのが私達の存在です。お恥ずかしい話ですが私の命を見る眼差しは、美味しいか・美味しくないか、鮮度がいいか悪いか、と言ったものであり、そこには命の犠牲の上に我が生命が成り立っているという心は微塵もありません。自分にとっての都合で生命を見ていく眼差しや生き方を仏教で “無明” と言います。そうした暗闇の世界に生きる限り、「人として生まれてこれて良かった!」という歓びの人生を生きることは難しいと思います。暗闇にい続ける限り、自分が暗闇にいるという自覚は出てきません。自分が無明のいのちを生きているという内省は出てくることはなく、「何を食べても当たり前」、「生きていて当たり前」という人生に終始してしまうでしょう。
 私達は「この世に生まれよう」と思って生まれた訳ではありません。「生きよう」と思って生きている訳でもありません。直接的には親を縁とする無限のいのちの世界から “いのちを賜り” 、あらゆるご縁に支えながら毎日を生かされているのです。暗闇は光によって破られます。光が射すことによって今まで見えなかったものが見えてきます。見えてきたなら深い頷(うなづ)きを感ずることが出来ます。その光のはたらきを “阿弥陀仏” と言うのです。
 さぁ、今日から大きな声で「いただきます!」とご挨拶致しましょう。

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