孤独の淋しさのなか ひとりにさせぬ弥陀のぬくもり
今から48年前にもなりますが、学生時代に父の実家がある島根県へ一人旅をしました。京都から松江に行き、中国山地へ向かって各駅停車の列車でトコトコ走るのです。当時すでに過疎化が進んでいた島根県でしたが、沿線に廃寺がそこかしこにあるのには変驚きました。
その後、NHKで「寺が消える」という特別番組が作られました。過疎化にあって住民(檀家)が激減した寺院では経済的に困窮し運営することが出来なくなり、廃寺となっていくさまを収録した番組です。
ある大きな農家に一人暮らしをしているおばあさんの所へテレビの取材クルーが訪ねていき、「こんな大きな家に一人暮らしで寂しくないですか?」と尋ねました。おばあさんは奥の仏間にあるお仏壇の方を見ながら「阿弥陀さんと一緒だから寂しくありませんよ」、とにっこりと微笑みながら答えたのでした。子供達は都会へ出て行って孫にも会えない孤独な一人暮らし、車も無い、コンビニも無い、無い無いづくしの日暮らしにあっても、「寂しくない、幸せだ」と言い切れるものは何なのか、その番組が放映されて随分と時が経(た)つにもかかわらず、忘れられない一コマとして私の脳裏に焼きついています。
これから私も老いを深めていって、思い通りにならない事、当てが外れることが増えてくると思いますが、あのおばあさんのような生き方をしていくことが出来たら、孤独にあって孤独に終わらない人生を歩むことが出来ると思うのです。
「如来さんはどこにおる 如来さんはここ(心)におる
才市が心に満ち満ちて なむあみだぶつを申しているよ」
同じ島根県の妙好人と言われた浅原才市さんの言葉です。阿弥陀さまは〈いつでもどこでも私を救う〉と誓われた、“はたらき”そのものです。
親鸞聖人は当時90歳でお亡くなりになられました。晩年は「目もみえず候ふ。なにごともみなわすれて候ふ(親鸞聖人御消息』)」と老いを深められ、今際(いまわ)の際(きわ)には「口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらはさず、もっぱら称名たゆることなし(「御伝紗」)」、とお念仏と共に生きた人生をお念仏と共に終えられていかれました。
阿弥陀さまは、孤独を抱えながら生きる時も、命終を前にした今際(いまわ)の際(きわ)も「あなたを一人にはさせぬ、わたしがここにいるよ」と私を包んで下さっています。
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