あたり前の日々 有り難さに気づかぬ私
あなたは朝目が覚めた時、「あぁ、今日も命があった」と喜ぶことはありますか? 恥ずかしながら私は一度もそうした経験をしたことがありません。よく眠れたとか眠り足らないとか、その日の予定が頭に浮かんだりします。「朝、目が覚めて生きている」事を慶ぶことが出来ないのです。
私の義兄は30年間糖尿病を患い続けて亡くなりました。ある朝、姉が目覚めると隣の介護ベットの上で亡くなっていたのです。晩年は人工透析をしており、その後足先が壊疽(えそ)をおこし、片足切断を余儀なくされた厳しい日々でした。
もう20数年前の事ですがその義兄が生前私の寺に来て、法語カレンダーのある言葉を見てしみじみと「ホントにその通りだなぁ…」、と呟いた事を忘れることが出来ません。健康を失った代わりに自らの命が無常であることをつくづくと思い知ったのでしょう。一方で持病のない人は健康ゆえに「明日死ぬかもしれない、という実感が伴わないのでしょう。
しかし「朝に紅顔あって、夕べには白骨となれる身なり(蓮如上人/ご文章)」とあるように、私達の命はこの一刹那(ひとせつな)後も保証されてはいないのです。しかし多くの人達はその厄介な事実に目をつむり、「明日がある、一か月後がある、来年があるさ」、と根拠のない仮定をたててその日暮らしをしているのではありませんか。(私もその一人です)
「いつ終わるかわからない」という命の事実に目をつむっていますから、「生きていて当たり前」なのです。生きていて当たり前ですからそこには生きている喜びに乏しい生き方しか生まれません。しかし、義兄の様に「明日をも知れぬ命」に気づかされた時、その一日がかけがえのない一日となって、生きていることの喜びをいただくことが出来たのです。人は何かを失ってこそ大切なことに気づかされることが多くあるのです。
仏教は月忌・法事などの命日を大切にする宗教です。何故か―。それは自らの命が無常であることを忘れ、この人生を生きていて当たり前と思いながら、生きている事への喜びも感謝も感ずることのない私達に向かって、阿弥陀さまや往生浄土され、諸仏となった今は亡き祖先の方々が、「無常の命を受け止めて、あなたらしく喜びと感謝に満ちた人生を歩んでいきなさい」とのご催促であったのです。
秋の夜長…、今月の言葉を胸に抱きしめ自らの来し方、行く末に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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