生きとし生けるすべてのいのち 光に照らされ差別なし
本願寺三代目覚如上人の著作、「口伝鈔」に次のようなくだりが出ています。親鸞聖人があるとき門弟達に次のようなことを尋ねられました。「夜が明けたからお日さまが出たのか、お日さまが出たから夜が明けたのか、皆さんはどちらかと思うか」。門弟達は「夜が明けたからお日さまが出た」と答えました。すると親鸞聖人は「そうではない」と答え、「お日さまが出たからこそ、夜が明けたのだ」と答えられました。お日さまが出ることによって暗闇が破られ、平原も海原も全てが光に照らされていく。「よくぞお日さまが出てくれた」、という深い感慨が親鸞聖人にあったのではないでしょうか。
思えば私達は夜が明けることを当たり前、と思いながら毎日をやり過ごしていると思います。そこにはお日さまが出たからこそ闇が破られ、全てを見通すことが出来る、という喜びがありませんね。一方で太陽のはたらきを当たり前と思わずに、「よくぞお日さまが出てくれた」と喜びながら日暮らしをされた親鸞聖人の生き方に、深い宗教的な生きざまを思わずにいられません。
さて、私達の日暮らしは深い宗教的な生きざまになっているか、そのことを考えてみたいと思います。
7年前におきた「津久井やまゆり園」殺傷事件の事を覚えているでしょうか。犯人によって障害を持った19人の入居者の方々が次々と襲われ殺害されました。犯人は「障がい者は世の中を不幸にする」という優性思想的な誤った価値観を持ち、犯行に至りました。私達の社会にもこうした価値観が全くないわけではありません。生産性や有用性に優れた存在を是として、劣っている存在を非としていく差別的な風潮は大いにあるのではないでしょうか。
「限りない光の仏さま」を阿弥陀如来と言います。阿弥陀如来の極楽浄土に咲く蓮の花は、あたかも車輪の様に大きく、青色には青い光、黄色には黄色い光、赤色には赤い光、白色には白い光あり、極楽浄土の光に照らされて蓮の花たちはそれぞれの色に輝いています。
この世に生きる私達もまた、阿弥陀如来の光に照らされてそれぞれの色に輝いています。生産性が有っても無くても有用性が高くても低くても、男でも女でも、それぞれのいのちがそれぞれに輝いている事を大切にする阿弥陀如来の智慧を、我が智慧としていのち平等の世界を実現してまいりましょう。
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