親の小言「我慢しなさい」 未だに私を育てている
世の親は、我が子に「幸せになってほしい」という願いを持ちながら子育てをするものです(稀にはそうでない親もいるようですが…)。子は思春期になり自我に目覚めると中々周りの声に耳を傾けなくなり、「自分が、自分が」という自我が形成されるにしたがって、親のいう事は特にうるさく聞こえるものです。
自我の芽生えはやがて我欲へとつながりますが、それを仏教では煩悩とも言い、煩悩をかかえた人間の事を「凡夫(ぼんぶ)」とよびます。その「凡夫(ぼんぶ)」について、親鸞聖人は「凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩われらが身に 満ち満ちて、欲も多く、怒り、腹立ち、嫉(そね)み、妬(ねた)む心多く、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と言い当てられています。このお言葉は何度読み返してもつくづくと「自分の事だなぁ」と深く頷(うなず)かずにはおれません。私達、煩悩をかかえた凡夫と言うのは死ぬが死ぬまで欲が多く、自分の思い通りにならないと怒り・腹立ち、他人に良いことがあると嫉(そね)み、妬(ねた)む心多い存在だというのです。皆さんはいかがでしょうか。
私が若い頃、あるご法事の会食の席の事です。飲み物を注(つ)ぎに来てくれた年配の男性がこう言われました。「私の親は一度も勉強しろ、とは言わなかった。その代わり人間はこう生きなければならない、という事を様々な格言などを通して私に語り続けていた。若い頃は余り気に留めることなく過ごしていたけれど、この年になるとその親心が痛いほど感じるようになり、今の自分をつくってくれたのだと思います」、としみじみと語っていたことが忘れられません。誠に有り難いご縁でした。
若い時にはお互い中々気づかないものですが、自分が年を重ねていく中で年老いた親、今は亡き親を想い、「あんなこともあった、こんなこともあった」と、自分の幸せを願い続けてくれた親のご恩に気づかされるのではないでしょうか。
浄土真宗では古き先達の時代から、阿弥陀さまを「親さま」と慕い続けてきました。親は我が子の行き先を案じ、「幸せになってくれよ」と願い続けているように、阿弥陀さまもまた「汝(なんじ)、目覚めよ」と私達の本当の幸せを願い続ける仏さまだからなのです。
親の願いや阿弥陀さまの願いを無為にすることのない、心豊かな人生を歩んでまいりたいものです。
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