今月の法話 2023年4月

おかげさま めざめの朝にいのち感じる

 「ホントにその通りだなー」…、ある法語カレンダーを見つめながら、義兄はしみじみとそう呟いた光景が瞼(まぶた)に焼きついています。その数年後、姉が朝起きると義兄は隣のベットで亡くなっていました。30年間糖尿病を患い、人工透析を余儀なくされ片足を切断し、担当医からは「血管がもろくなっていますので、いつ何があるか分かりません」、と告げられたその後の事でした。カレンダーにはこう書かれてありました。「朝、目が覚めた 生きている 大いなる喜び」。病を得て、明日をも知れぬ我が身であるとの自覚から、“今、生かされている我が身”というものを強く実感したのでしょう。
 ひるがえって、私は朝目が覚めて考えることは、「もう起きなくては…」、「今日の予定はどうなっていたか…」等の雑念です。とてもじゃないけれど、「今朝も命がある」事を瞬時には喜ぶことの出来ない私がそこにいます。生きていて“当たり前”という日々の中には喜びがありません。何というお粗末な生き方なのでしょうか…。
 「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
 親鸞聖人は九歳の時、比叡山の仏門に入るべく青蓮院にいる天台座主の慈円を訪ねましたが、夜も更けていたので慈円から、「もう遅いから明日の朝に得度の式をしてはどうか」と言われました。親鸞聖人は「明日までは待てません」と言い、その時詠まれたのが先の歌と伝わっています。「今美しく咲いている桜も、夜半に風が吹いて散ってしまうかもしれない」という事を、親鸞聖人は自分の命になぞらえて詠われたのでしょう。「明日も自分の命があるかどうか分からない、だからこそ“今”という時を自分なりに大事に生きていきたい」との思いが込められています。
 私達の人生は「若くて元気」、「死んだら終(しま)い、生きてる時が花」という価値観に覆われてはいませんか。そうした価値観が全て、と思っていても、必ず「老いて病を得て、死んでいかねばならない」という事を仏教は教えているのです。仏という超越的な存在を無自覚に当て頼りにするのではなく、「私のいのちの本当の有り様と進むべきいのちの道」を明らかに指し示してくれるはたらきそのものを「仏陀」と呼ぶのです。
 当てが外れても、思い通りにならなくても、自分の人生を慶びながら生きていける道の有ることを仏教は教えてくれています。南無阿弥陀仏

印刷用PDFファイルはこちら
PDFファイルをご覧いただくには、Adobe Reader(無料)が必要です。ダウンロード

法話バックナンバー