どれだけ迷惑を許しあえるか… 人と人とのつながりの深さ
「自分が会社で辛い思いをしながらもこれだけ頑張っているからこそ、うちの家庭は生活が出来ている」。「旦那の給料は安いけれども、私がパートに出たり家事一切を引き受けているからこそ、うちの家庭は生活が出来ている」。ある夫婦の心のつぶやきです。お互いに自分に「こそ」をつけていますが、こういう生き方を「こそ泥」と言うそうです(笑)
「自分の給料は安いけれど、妻がパートに出て家事一切を一生懸命してくれるからこそ、うちの家庭は生活が出来ている」。「会社で辛い立場にありながらも、旦那が家族のために辛抱して一生懸命働いて給料を入れてくれるからこそ、うちの家庭は生活が出来ている」。このように相手に「こそ」をつける生き方は、「私が私が…」という執着を離れた願わしい生き方とは思いませんか?
自己中心的な私達は「人に迷惑をかけない」生き方を心がけても、知らず知らずのうちに人に迷惑をかけながら生きているのです。「人に迷惑をかけながら生きている」事への深い内省が、結果的に人とのつながりを深くしていく生き方なっていくのではないでしょうか。親鸞さまのお示しになられた「信心」とはそのような想いであり、お念仏の教えに生きる、という事はこうした具体的な生き方に他なりません。
人と関わるという事は良い事ばかりではありません。人と関わる事で傷つく事もあります。だからと言って、傷つく事を怖れ人と浅く関わっている限り人と深くつながる事は出来ません。相手の立場に立って言葉や想いを深く受け止める時に、今迄気づかなかった相手の言葉や生き方の背景が見えてくるはずです。見えてきたならば、今までと違った相手への眼差しもおのずからと湧き上がってくるでしょう。山あり谷ありのやり取りを経験する事を通して、人間的成長を遂げることも出来るでしょう。
70歳を前にしてつくづく気づかされるのは、多くの人に許されて生きてきたのだなぁ、という事です。自分の思いをかなえることで精一杯の人生を生きてきた私は、人を許す前に多くの人に許されて生きてきたという、“いのちの事実”です。その事に気づかされたからこそ、人とのつながりの深さを大切にして生きていきたいと思うのです。
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