煩悩の嵐も承知ずみ 沈むことなき弥陀の大船
六人兄弟末っ子の私は、幼い頃に衣服や学用品はいつも兄達のお下がりで、肘や膝につぎ当てしたものを身につける事も少なからず有りました。運動会や風邪をひいた時には普段口にすることのない、バナナやみかんの缶詰め、サイダーが飲めるという事は本当に嬉しい事でした。また、家電製品と言えば裸電球にラジオが一つでした。
それ以来半世紀をゆうに越えた現代では、私達の身の周りは物で溢れています。昔は食べる事が出来なくて病気になっていましたが(私の歳の離れた姉は、戦後間もない生まれですが実際に栄養失調で亡くなりました)、今では食べ過ぎによる栄養過多で多くの人が病気になっています。また、各家庭には様々な電化製品が多くあり、本当に隔世の感があります。
それで私は今の生活に満足しているのかと言うと、決してそうではないのです。もっと快適な日暮らしをしたいという、あくなき欲求が次から次へと新たなモノを欲していきます。まさにお釈迦さまの言う通り、「田があれば 田に悩み、家があれば 家に悩む。牛馬などの家畜や、金銭・財産・衣食・家財道具…(中略)、あればあるにつけて 憂いは尽きない。また、田が無ければ 田を欲しいと悩み、家が無ければ 家が欲しいと悩む」。富や名誉など、有っても無くても私達は思い悩む…。そうした生き方を離れることが出来ないのが私達の生き方ではないでしょうか。
さて仏教は私達が、一切の煩悩を断ち切った悟りの境地を目指す教えです。これを転迷開悟と言います。しかしそれは生半可に出来る事ではありません。浄土真宗の開祖、親鸞聖人は二十年もの長きに亘(わた)り比叡山で大変厳しい修行に勤しまれましたが、それでも悟りを開くことはできませんでした。
親鸞聖人が書かれたお正信偈に
顕示難行陸路苦
(けんじなんぎょうろくろく・自力の修行は陸路を歩いて進むように苦しく)信楽易行水道楽
(しんぎょういぎょうしいどうらく・阿弥陀さまの救いは、船で水路を行くがごとく易しい)
とあります。自分の力で煩悩を断つことの出来ない私達をとうに承知で、「我にまかせよ 必ず救う」と呼びかけられ、南無阿弥陀仏という“はたらき”として、私達の乗ることの出来る大きな船を用意して下さった仏さまが阿弥陀さまでありました。
さぁ、あなたは決して一人ではありません。お浄土(煩悩を離れた悟りの世界)へ向かう大船に乗りながら、一度しかない人生をお念仏と共に荒波をかき分けて、自分らしく力の限り生きてまいりましょう。
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