今月の法話 2023年1月

仏法は生にも死にも輝きを与えてくれる

 「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり」。真宗大谷派の学僧である清沢満之の有名な言葉です。私達は死への恐れから死を遠ざけ、なるべく考えないようにしています。では考えないと我が身に死は訪れないかというと、そういう訳にはまいりません。「上(かみ)は大聖世尊(だいしょうせそん)よりはじめて、下(しも)は悪逆の提婆(だいば)にいたるまで、逃れがたきは無常なり」の言葉の様に、どんな人にでも必ず死はやってくるのです。しかも人は皆、平均寿命まで生きれるという保証はどこにもなく、生きるご縁が尽きたならばどんなに若くて元気であっても死ななくてはなりません。
 清沢満之は32歳の時に、かつては不治の病とされた結核を患い、自らの死と向き合うことを通して人生の根本命題たる死と向き合いながら人生をお念仏と共に生き抜いた人でありました。死という恐怖が人生をしっかりと生き抜くご縁となったことでしょう。

「お父さんありがとう またあした会えるといいね と手を振る。
テレビを観ている顔をこちらに向けて「おかあさんありがとう またあした会えるといいね」手を振ってくれる。
今日は一日の充分が、胸いっぱいにあふれてくる。

 46歳でガンのために亡くなった鈴木章子さんの詩です。乳がんを患い、転移した肺をとり、余命いくばくもなく、このタイミングを逃したら家に帰ることはできない病状の時に、入院している札幌の病院から斜里の自宅である西念寺に数日戻った時に感じたことを綴った詩です。
 子供たちが成長し、わが家は妻と私との二人暮らしに戻りました。情けない話ですが、時には「おはよう」も「おやすみ」の言葉もなく布団に入ることもあります。健康だから元気だから「明日、会えないはずがない」との根拠のない思い込みの中にいる私は、そうして生きているのです。
 ガンを患い重篤な状況にある鈴木さんは、お念仏と共に苦難の人生を生き抜いた方でした。そして死と向き合いながら生きる中であるからこそ、このような詩を残したのではないでしょうか。何気ない日常の中に、今日もご縁があって一日を過ごすことができたという歓びの想いが込められています。私達も他人ごとではありません。自分の死としっかりと向き合いながら限りある人生を歓びと共に生きていきたいものです。

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