今月の法話 2022年12月

躊躇して 佇むわたし いのちの願いに 歩みはじめる

 人生を歩むという事は、選択の連続と言ってもいいのかもしれません。自分の歩む道を選び取り、あるいは選び捨てているのです。些末なことで言えば今日の晩ご飯は何を食べるのか。会社帰りに一杯やるかやらないか。車の運転ではどの道を行くのか。大きなことで言うと、どの学校に進学しどのような職業に就くのか。どこに住むのか。結婚するのかしないのか。ある意味、無限の選択と向き合いながら生きているといっても過言ではありません。その時々に良かれと思って出した結論が、後になってそうではなかった、という事も少なからずありますから、人生とは誠に厄介なものです。
 食いしん坊の私はメニューから選ぶときに大変迷います。「あれも食べたいし、これも食べたい」と思います。ようやく決断してAを選ぶと「やっぱりBにすればよかったかな」、とも思います。もしもBを選んだとしても きっと心の中で同じことを繰り返す気がします。こうしたことはメニュー選びのみならず、人生において選択するさまざまな場面であるのではないでしょうか。
 そもそも私達にとっての選択の基準となるものは何かというと、自分にとって損か得か、その一点ではないでしょうか。そのように自分と自分以外の他を分け隔てする心を仏教で「分別心」と言います。しかし、この世の全ては縁によって成り立っている存在ですから、縁が変われば自分の状態も変わっていくのですが、ひとたびあるもの(あること)に執着を起こすと中々そこから離れることができず、あっちにしようか、こっちにしようか躊躇することしきりです。それは食べ物や着るもの、自分の会話や行いなど、およそ人生全般においてそのことは言えるのではないでしょうか。
 お釈迦さまがお悟りを開かれたその内容は、“縁起”を言うことです。全てのものはなに一つ単独で存在するものはなく、皆、相依り相関係しあう縁起の世界に存在しているという事実そのものをお悟りになられたのです。これを自他一如の縁起の世界と言います。川は流れる水があって川となり、流れる水路があり、水は散逸することなく流れていくことができるのです。親がいたから子が誕生し、子が誕生してくれたから親になることができるのです。これらもまた縁起の理法と言えるのでしょう。
 そうした自他一如の大きな心を我が心として生きようとする時に、人生において違った生き方が見えてくるのではないかと思います。

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