時代を追えば 自己を忘れる
地下鉄のホームに並ぶ人々や電車の椅子に座る人々は、皆一様にうつむき加減にスマホの画面をのぞいています。それは小児科や産婦人科等の病院の待合室でも同じような光景だといいます。以前そうしたところでは若いお母さんたちが、赤ちゃんや子供の顔を見つめたり、それぞれの子育ての事についてのおしゃべりで賑やかだったそうですが、随分様変わりしたようです。
若い子がスマホのゲーム依存症になるケースや、子供たちのいじめの道具として使われたり、出会い系サイトでの交際で女子中高生が犯罪に巻き込まれることも少なからず起きています。
スマホ自体は問題のあるものではなく、使い方によってはとても便利ですが、スマホによってさまざまな問題が惹起していることも考えねばなりません。科学技術の発展が人類に与えたのという事なのでしょう。しかし科学技術を否定して原始生活に戻るという事を言っているのではありません。肝心なのは時代や道具に振り回されない、自律(自立)的な生活をすることではないでしょうか。
お釈迦さまが亡くなられる時のお弟子たちへの遺言に、「自灯明 法灯明」と言われるものがあります。「自らを灯(ともしび)とし、依りどころとして、他を灯とすることなかれ。法(ほう)を灯(ともしび)とし、依りどころとして、他を灯とすることなかれ。人生は無常であるから、怠ることなく勤め励めよ。」と、自らの死を目前にして悲しんでいる弟子達にお話されました。
ここでのキーワードは“法”です。“法”とは、普遍的な真実をいい“悟り”ともいうべきものです。普遍的なるものとは、時間や空間、そして民族をも超えた真実なるものです。それはお釈迦さまによって明らかにされた無常(全てのものは移ろいゆく)や無我(全ての存在は単独で存在するのではなく、相依り相関係しながら存在する)という真理です。その“法”に立脚した自己こそが真の拠りどころであり、いつ終わるかわからない、この人生を多と比較することなく精一杯生きていきなさい、という事がお釈迦さまの最後の遺言たる「自灯明 法灯明」という事です。
時代や周りに流され、ややもすると自己の生き方さえ見失いがちな私達。お釈迦さまの遺言を座右の銘として生きていきたいものです。
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