亡き人は 道を知らせる ほとけさま
現代は医療の発達で、小さな体で産まれた新生児が亡くなるという事はとても少なくなりました。しかし、ひと昔前までの日本は多産多死の国でした。医療も栄養も行き届いていない時代では子供が沢山産まれても、沢山亡くなっていったのです。
大正二年生まれの母は、十一人の子供を産みました。しかし昭和二十年を境とした八年間に乳幼児の子供が五人も次々と亡くなっていきました。四人が肺結核、一人は栄養失調でした。
今から三十年ほど前、亡くなった二人の兄の五十回忌法要が実家の寺で勤まりました。お勤めの後、父が挨拶の中で二人の兄が亡くなっていく様子を語り続けました。その頃はほとんどの人が家で産まれ、家で死んでいった時代ですので、二人の幼い兄も実家で息を引き取りました。
今際(いまわ)の際(きわ)にする法話を臨終法話と言います。「終わりに臨(のぞ)む」ということですから、本来は息を引き取る少し前を「臨終」と言ったようです。父も兄を抱きしめながら臨終法話をしたのです。「坊やはこれから“のんの様”の国へ往くんだよ。お父ちゃんもお母ちゃんも後から必ず行くから、先に往って待っているんだよ。息子はその言葉を『うんうん』とうなづきながら聞いて、ほどなくして亡くなりました。私はそれまでも僧侶として阿弥陀さまの教えを、自らいただきご門徒に伝える道を歩んでいましたが、この悲しい縁を通して、一層その道を歩むようになりました。その道を歩むよう導いてくれたのは、まさに亡き我が子達でありました…」。このように語ったことでした。
平安時代の歌人、和泉式部もまた幼き愛娘を亡くしました。しかし、お念仏のご縁の中で悲しみだけに終わることなく、次のような歌を詠まれました。
夢の世に あだにはかなき身を知れと 教えて帰る子は知識なり
いつ果てるともしれない儚(はかな)いいのちを生きている我が身であるぞ、とそのことをこの母に教えてお浄土に還(かえ)っていった我が子は仏さまでありました。と我が子を失った悲しみの中にあっても慶べる世界に出遇われたのでした。
私達も、死別の悲しみに佇むだけではなく、亡き人が仏さまとなってこの私に、「真のいのちに目覚めよ」とはたらき続けてくださることを、お念仏の慶びとして賜っていけたなら、悲しみの中にあっても慶べる世界をいただくことができると思います。
※ “のんの様” は仏さまのこと。
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