今月の法話 2021年11月

私の悲しみは 仏さまの悲しみ 私のよろこびは 仏さまのよろこび

明治36年に山口県の現在の長門市に生まれ、26歳の若さでこの世を去った童謡詩人、金子みすずさんの作品に以下の詩があります。

「さびしいとき」
私がさびしいときに、よその人は知らないの。
私がさびしいときに、お友だちは笑うの。
私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、仏さまはさびしいの。

 仏さまは「智恵」と「慈悲」のお心を持っておられます。仏さまの智恵は、どんな固いものでも切り裂くダイヤモンドに例えられます。その知恵の心で私の愚かな心を見抜き、智恵の人へと向かわせて下さいます。また、慈悲の心で私をやさしく包み込んで下さいます。それは「同体の慈悲」と言われ、いのちを共有するところにおきる「人の喜びを我が喜びとし、人の悲しみを我が悲しみとする」という「同事」の心です。

『観無量寿経』には「仏心とは、大慈悲これなり」とあります。慈悲の「慈」とは「与楽」という意味で、幸せの実現のために積極的に助けることで、しばし父親の愛情にたとえられます。それに対して「悲」は「抜苦」のはたらきを持つと言われます。苦を癒すのは、「悲しみを同じくする」ことです。仏さまは、愚かで罪ばかり作っている私を優しく包み込んで、決して捨てない摂取不捨のはたらきをお持ちのかたです。悲しい時に一緒に泣いてくれる母親の愛情にたとえられます。

ご門主(西本願寺住職)は「念仏者の生き方」の中で「私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執われた煩悩具足の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく人間になるのです。」と記されています。

また「私たちのちかい」でも「自分だけを大事にすることなく 人と喜びや悲しみを分かち合います 慈悲に満ちみちた仏さまのように」と記されていますように、私たちは生涯煩悩具足の凡夫ではありますが仏さまのお心にかなう生き方を目指して、念仏申す日暮らしを送りましょう。

参考文献 上山大峻・外松太恵子著『金子みすゞ いのちのうた1』JULA出版局

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