今月の法話 2020年10月

寄り道が そのまんま 無碍の一道

 『歎異抄』の「第7条」に「念仏者は無碍の一道なり」という言葉が出てきます。「念仏者は、何ものにもさまたげられない、ただひとすじの道を歩むものです」という意味です。今日、新型コロナウイルス感染症の世界的な感染拡大により不安な日々が未だ続いていますが、念仏者である私たちは何ものにもさまたげられない、浄土へのただひとすじの道を歩んでいるのです。
 平安末期から鎌倉時代にかけて90年の人生を歩まれた親鸞聖人のご生涯も決して穏やかなものではありませんでした。9歳から29歳までの20年間、比叡山でご修業をなされましたが自らの力でこの世で悟りに至ることは出来ないと気付かれ、29歳の時に比叡山を下りられて法然上人のもとへ行かれ、専修念仏の教えに出遇われます。しかし親鸞聖人35歳の時に、専修念仏の教えが朝廷などからの弾圧を受け(承元の法難)、親鸞聖人は越後へご流罪となられます。晩年には関東で親鸞聖人の教えとは違う教えを弘める長男である善鸞を義絶なされました。また親鸞聖人の時代は天候不順による飢饉や疫病が流行し多くの人々の命が奪われるなど、そのご生涯は大変ご苦労の多いものでありました。しかしどんな時も親鸞聖人はただ阿弥陀仏の本願を信じ、ひとすじの念仏の道を歩まれました。
 親鸞聖人が著された『教行信証』の「行文類」には、

「しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず」註釈版189頁、「そこで、本願の大いなる慈悲の船に乗り、念仏の衆生を摂め取る光明の大海に浮かぶと、この上ない功徳の風が静かに吹き、すべてのわざわいの波は転じて治まる」
『教行信証(現代語版)』114頁

 とあり、阿弥陀仏の本願力を疑いなくいただく念仏者は、本願のはたらきによって、様々なわざわいが救いの中の安心に転換されるのです。人生の中で起こるさまざまな出来事について、その意味を新たに知らせていただくことで、より豊かな念仏の一道を歩むことできるのです。宗祖親鸞聖人は様々な苦悩や困難な出来事をお念仏の教えに出遇う仏縁として人生を歩まれました。私たちも人生における苦悩や困難を、阿弥陀仏の本願の救いに出遇う仏縁とし、コロナ禍の世の中においても何ものにも妨げられることのない浄土への無碍の一道を歩んでいきましょう。

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