今月の法話 2020年9月

迷惑を かけ続ける 私のための願い

 『維摩経』という経典には、蓮の花がどのような場所に咲くのかが説かれています。そこには「譬如高原陸地不生蓮花 卑湿淤泥乃生此華(高原の陸地には蓮華を生せず 卑湿の淤泥にすなはち蓮華を生ず)」とあります。蓮の花は高原の澄んだ空気のもとでの陸地では咲かず、底の見えないような泥沼の中に深く根を下ろし、その泥を養分にして成長して水面で泥に汚れることなく美しく花を咲かせるのです。
 いま私たちが生きている世の中は高原の澄んだ空気のようなイメージでしょうか?それとも歩くと底の泥が舞い上がる濁った泥沼のようなイメージでしょうか?日々のニュースなどを見聞きしていると不条理な出来事が沢山あり、悲しい事件もたくさんあります。底の見えない泥沼のような世の中であると考える方が多いかと思います。蓮の花は泥沼の中に根を張り成長して、やがて水面に泥に汚れることなく美しい花を咲かせます。お念仏をいただく私たちも泥沼のような混沌とした世の中で煩悩をたくさん抱えながら生活し、命終えるときに阿弥陀様のおはたらきによってお浄土に生まれ往き、清らかな悟りを得ることができる人生を歩んでいます。
 今まで誰にも迷惑をかけずに生きてきたという人は誰一人いません。私たちは多くの人と関わりながら、ある時は助けあい、またある時は迷惑をかけて今まで生きてきました。阿弥陀仏の救いの対象は迷惑をかけてしか生きていくことのできない私です。その私に阿弥陀様は「必ず救う われにまかせよ」といつも心配し、呼び続けて下さっています。迷惑をかけ続けて生きている私ですが、阿弥陀様や周りの人たちに感謝し念仏申す人生を歩んでいきましょう。


限りなき光と寿(いのち)の仏
阿弥陀如来がさとりを開く前、法蔵菩薩であったとき、すべてのものを救うため、限りない光と寿をそなえた仏になろうと誓われた。そして果てしない修行の末に、その願いを成就して、如来となられた。
阿弥陀とは無量をあらわす。阿弥陀如来は、その限りない光をもって、あらゆる世界を照らし、私たちを摂(おさ)め取ってくださる。その限りない寿をもって、あらゆる時代を貫き、私たちを救いとってくださる。
親鸞聖人は仰せになる。

 十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の
 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなわし
 摂取(せっしゅ)してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる

たとえ私たちがその救いに背を向けようとも、摂め取って捨てないと、どこまでもはたらき続ける仏がおられる。その仏を、阿弥陀如来と申し上げるのである。」
『拝読 浄土真宗のみ教え』より

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