生は偶然 死は必然
キサーゴータミーという母親がいました。ようやくよちよち歩きができるようになったばかりの一人息子を失い、悲しみに打ちひしがれます。彼女は、息子を生き返らせ、治す薬を求めて釈尊のもとを尋ねます。釈尊は「一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるように!」と言います。
町中の家々を尋ねたキサーゴータミーは、「ああ、なんと恐ろしいこと。私は今まで、自分の子供だけが死んだのだと思っていたのだわ。でもどうでしょう。町中を歩いてみると、死者のほうが生きている人よりずっと多い。」と死はどこの家にもあることに気づかされました。
そこで釈尊が彼女に、
子供や家畜・財産に気を奪われて
とらわれる人を 死王はさらいゆく
眠りに沈む村々を 大洪水がのむように
と詩をうたいました。
死が、生きる者の逃れられない定めであることを教えられたキサーゴータミーは、出家して生死輪廻の苦しみの世界を超えた、仏の悟りの世界を求めていきました。こうして尼僧となった彼女に、釈尊は
不死の境地を見ることなしに 百年間も生きるより たとえ刹那の生であれ
不死の境地を見られれば これより勝ることはない
と詩をおくりました。
キサーゴータミーと同様、私たちも死を避けて生きていくことはできません。私たちにとって懐かしい方々のご往生を通して、私たち自身の命の行き先を見つめ直しませんか。
「お盆」
亡くなられた先人たちのご恩に対し、あらためて思いを寄せるのがお盆である。
親鸞聖人は仰せになる。
願土(がんど)にいたればすみやかに 無上(むじょう)涅槃(ねはん)を証(しょう)してぞ
すなはち大悲(だいひ)をおこすなり これを回向(えこう)となづけたり
浄土へと往生した人は、如来の願力によってすみやかにさとりをひらき、大いなる慈悲の心をおこす。迷いのこの世に還えり来たり、私たちを真実の道へ導こうと常にはたらかれるのである。
仏の国に往き生まれていった懐かしい人たち。仏のはたらきとなって、いつも私とともにあり、私をみまもっていてくださる。
このお盆を縁として、すでに仏となられた方々のご恩をよろこび念仏申すばかりである。
『拝読 浄土真宗のみ教え』より
印刷用PDFファイルはこちら
PDFファイルをご覧いただくには、Adobe Reader(無料)が必要です。ダウンロード