今月の法話 2019年5月

常識はない それぞれの偏見があるだけ

 私たちは物事に対して何が善で何が悪かなどの価値判断をしがちです。しかし、その価値基準は煩悩だらけの私自身であって、いわば私にとって都合のよい見方でしかありません。生きることは死ぬことより優れ、社会的に活躍している人は名もなき人より立派であるという見方は、つきつめれば欲望の延長線上の、虚しいものの見方です。

 私たちの欲望にはさまざまな欲望があります。お腹が空けば美味しいものが食べたい、満腹になれば眠りたい、あるいは異性を見て邪心を起す。また、財産・地位・名誉を獲得する心も止むことはありません。中でも平素、何よりも強い欲望が「いつまでも元気で生きたい」という生命欲です。したがって、私たちは常日頃、「生きたい、生きたい」という欲望の色メガネをかけて物事を眺めているわけです。そうすると、そこには優劣や善悪の見方が生じてきます。例えば、健康と病気を「生きたい」という色メガネをかけて眺めたならば、健康は優れ、病気は劣るという具合です。さらに生きることと死ぬこと、これを同じく「生きたい」という色メガネをかけて眺めたならば、当然のことながら「生きることはすばらしい、死ぬことはダメである」という見方になってしまいます。しかし、これは欲望の色メガネをかけたものの見方であって、ありのままをありのままに見る見方とは言えません。仮に色メガネを外して物事を眺めることができたならば、どちらにも優劣や善悪はないはずです。

 阿弥陀仏の本願を真実のよりどころとして、本願に帰依信順された親鸞聖人にとって、常識を超えた教えは常識をわきまえた人に対して常識に執われる心がいかにあてにならないものかを示唆されたものであるといえましょう。

 病気や肉親の死など、思いがけない不幸を私たちは何度か経験していかなければなりません。しかも苦悩のただ中にあるときは、理性や知性が通用しない、どうにもならない状態に陥っているときでもあります。そうしたときに究極のよりどころとなるべきものは、常識的なものや私たちと同じ次元のものではありません。理性や知性を超えたはたらきをもつ絶対的な真理、すなわち阿弥陀仏しかありません。聖人の教えの中で、常識を超えた教えに注目していくことは、私たちが正しいと思い込んでいる常識の間違いに気づかされるとともに、聖人の教えの真実性がさらに深まる手掛かりになっていきます。

       引用文献 白川晴顕著『親鸞聖人と超常識の教え』永田文昌堂

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