今月の法話 2018年12月

真実の人生を求めるのは今しかない

「人身(にんじん)受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。
この身今生(こんじょう)にむかって度(ど)せずんば、さらにいずれの生(しょう)にむかってかこの身を度せん。大衆もろともに、至心(ししん)に三宝(さんぽう)に帰依(きえ)したてまつるべし。

 みずから仏(ぶつ)に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道(だいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)をおこさん。
 みずから法(ほう)に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、ふかく経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧海(ちえうみ)のごとくならん。
 みずから僧(そう)に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆(だいしゅう)を統理(とうり)して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。

無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)にもあい遇うことかたし。われ今見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することをえたり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。」

 この言葉は『日常勤行聖典』の最初に記載されている礼讃文(らいさんもん/三帰依文・さんきえもん)です。人間に生まれることはとても難しいことであり、仏法に出遇うことは、もっと難しいことであると皆さんは意識したことはありますか?私たちはもうすでに人間に生まれ、さらにお念仏のご縁にも遇えていることを、何の感動もなく、当たり前のように思って生活しています。
 人間に生まれることの難しさを本当に喜ぶことが出来るようになるには、お聴聞しお念仏の教えに遇うことではじめて気づかされるのです。お念仏の教えに遇うことができなければ、人間に生まれることは、喜びではなく苦しみの多い「一切皆苦」と説かれているように、ただ辛く苦しいだけの人生で終わっていたかもしれません。
人間として生まれることがとても難しいことの例えとして、『雑阿含経』の中に「盲亀浮木(もうきふぼく)」のたとえとして説かれています。ある時、お釈迦さまがお弟子の阿難尊者に尋ねられました。「大海原の底に一匹の目の見えない亀が住んでいて100年に1度だけ浮かび上って海面に顔を出すとしよう。 その大海原には1本の流木が漂っていて、その流木の真ん中には1つの穴がある。この亀が海面に浮び上がったとき、ちょうどこの流木の真ん中にある穴から頭を出すようなことがあるだろうかと」。阿難尊者は「大海原においてそんなことはほとんど考えられません」と答えました。するとお釈迦さまは「誰もがそんなことはあり得ないと思うであろう。しかし、絶対に全くないとは言い切れぬ。人間に生まれるということは、今の例えよりも更にありえぬほど難しいことなのだ」と説かれました。それほど稀な人間として生まれる尊いご縁を今我々はいただいているのだと説かれました。

 すでに人間として生まれさらに仏法聴聞しているとても有難いご縁をいただいて生かされている私であるのに、本当にそのことを有難く思っているでしょうか。限りある人生、人間として生まれることができ、さらに「南無阿弥陀仏」に出遇えた喜びを味わいながら浄土への人生を歩ませていただきましょう!

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