今月の法話 2018年11月

「こんなはずではなかった」 我が身に起きたときにしか気づけぬ私

 9月6日未明に発生した「北海道胆振東部地震」災害により被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 北海道では9月6日未明に大規模地震が発生し、その後全道で停電になりました。停電によりしばらくの間、大変不便な生活を強いられました。普段は電気が当たり前のように使えますが、地震により電気が全く使えなくなりました。普段は使えて当たり前と思っている電源を必要とする全ての家電製品が停電で使えなくなりました。マンションで暮らされている方は停電により水道が使えなくなり、何度も階段を上り下りして水を運ばれた方もおられたと思います。近年、日本全国で大きな自然災害が起こっていますが、テレビや新聞で被災地の状況を目にしても自分の住む地域で災害が起きない限り今の自分とは関係がないことだと思い過ごしていました。

 ところで今日、2人に1人が癌になり3人に1人が癌で死ぬと言われています。この癌という病気は仏教的にいうならば、死の「因」ではなく、死の「縁」に過ぎません。では死の根本原因は何なのでしょうか?それはこの世に生まれてきたという事実に他ならないのです。例えばローソクに灯火が灯った瞬間に遅かれ早かれ必ず火が消えるということが決定するように、「老・病・死」はどこか遠くから私のところに突然やって来るのではなく、生まれた瞬間から徐々にやって来ているのです。癌の告知を受ければ多くの人は「こんなはずではなかった」と苦しみ悩み絶望の淵に立たされます。しかし、私たちは誰もが生まれた瞬間に死の宣告を受けているようなものです。私たちの人生はサッカーのロスタイムのようなものかもしれません。お互いにカウントダウンはもうすでに始まっていますが、いつ試合終了のホイッスルが鳴るか誰も知りません。死と背中合わせの今を生きつつ、そのことを忘れ、何かの拍子に思い出して「こんなはずではなかった」と愕然とするしかなかった人生。

 本願寺第八代蓮如上人は『白骨の御文章』の中で私の命の儚さを「老少不定」とお示し下さっています。どれだけ若くても、どれだけ健康な人であっても「無常の風」が吹けばいつ終わるかわからない、儚い命をいま生きているのですよとお示し下さっています。「こんなはずではなかった」と我が身に起きたときにしか気づけぬ私に、いつどこでどのような形で死を迎えようとも、この人生を決して空しく終わらせないという阿弥陀様の願いは、南無阿弥陀仏となって私のいまここに確かに届いてます。

参考文献『よろこび』探究社

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