老病死から 眼をそらし 逃げるほど 生に苦しむ
今の医学は、癌とか不治の病を宣告されて死ぬしか道がない人に対して、一分一秒でも延命の治療を続けている、これが医学のやり方である。しかし、考えてみれば、非常に酷なやり方である。死ぬしか道がない人に対して、「お前、そんなことでどうする。もっと生きろ、もっと生きろ」と死んでいく患者の尻を叩いているのと同じやり方をしているのが延命治療ではなかろうか。そこには死んでいく人にとって全くといってよいほど救いというものが残されていない。しかし、親鸞聖人が心の支えとされた阿弥陀さまは、死んでいく人に「もっと生きろ」とは決して言われないはずである。阿弥陀さまはどういう眼で死んでいく人を見ておられるか。「生きることも死ぬことも優劣はない。生きることも素晴らしいことである、と同時に死ぬこともまた素晴らしいことである。死ぬことは決して惨めになること、ダメになることではない。だから、安心して死んで来い」と温かく受け止めて下さるのが阿弥陀さまの真実のものの見方ではないかと思います。
釈尊が説かれた仏教の教えは、このような優劣という価値観や欲望などの煩悩に煩わされない身になることを説くところに主眼があります。私たちは欲望が満たされないから愚痴や不平不満が生じ、それがまた苦しみの原因にもなります。欲望を満たすことにあくせくし、何が真実であるかに気づこうともしない迷いの中に存在する私たちが、迷いの眠りから目覚めさせられることを説く教えこそ真実の宗教です。
目覚めとは自分の非や愚かさに気づかされることです。それは思い通りになることで、ものごとが解決していくという考え方が間違っていたことに気づかされることでもあります。しかし、現在の宗教には欲望を満たしたいという人間本来の感情を否定していくのでなく、むしろ、それをうまく利用して、その感情に迎え入れられるようなことを説いていくものが目立ちます。そのような欲望を満たすことを優先して説く教えは、真実の宗教から逸脱していると言い切っても決して間違いではありません。
引用文献 白川晴顕著『親鸞聖人と超常識の教え』永田文昌堂
印刷用PDFファイルはこちら
PDFファイルをご覧いただくには、Adobe Reader(無料)が必要です。ダウンロード