私のものさしで 他人を量れば 誤る
私たちはいつまでも元気で生きていたいという欲望の色メガネを掛けて、常日頃ものごとを眺めています。生きたいという色メガネを掛けて健康と病気を眺めたならば、どういう見方になるでしょう。健康は優れ、病気は劣ったもの、あるいは健康は善であり、病気は悪であるという見方になってしまいます。もっと極端にいえば、生きることと死ぬこと、この二つを生きたいという色メガネを掛けて眺めたならば、生きることは素晴らしいことであり、死ぬことはダメであるという見方になってしまいます。これが生きたいという欲望の色メガネを掛けたものの見方であり、同時に平素の私たちのものの見方です。しかし、このようなものの見方が果たして真実ありのままのものの見方かといえば、決してそうではありません。欲望の色メガネを掛けたものの見方に過ぎないわけです。仮に、私たちがこの色メガネを外してものごとを眺めることが出来たとしたならば、生きたいという欲望がないわけですから、健康も病気も、生きることも死ぬことも、いずれも優劣はない、善悪もない、どちらも同じことという見方になります。これが色メガネを外した真実ありのままのものの見方です。
阿弥陀如来という仏さまは、私たちのものの見方とは違って、このような色メガネを掛けてものを見ていかれません。したがって、生きることも死ぬことも優劣はない、死ぬことは決して惨めになること、ダメになることではない、どちらも同じこと、という見方をいつもされているのです。
残念ながら、私たちは平素色メガネを掛けてものごとを眺めているにもかかわらず、色メガネを掛けていることさえも気づかないで、自分の見方・考え方が正しく、相手が間違っているというような主張ばかりしておるのではないでしょうか。真実の仏教の教えに照らして、私たちのものの見方を考えたならば、欲望の色メガネが優劣とか善悪といった価値判断を生じさせていることが解ります。
参考文献 白川晴顕著『親鸞聖人と超常識の教え』永田文昌堂
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