今月の法話 2017年12月

正義(善意)と正義(善意)がぶつかり 争いが生まれる

 「善人ばかりの家庭は争いが絶えない」といいます。ちょっと意外な気がしますが、どういう意味でしょうか?
 あるご家庭で、こんな出来事がありました。
 ある日、お母さんは掃除をしようと、床の間に飾ってあるお父さんのお気に入りの置物を一旦どけて縁側に移して、その座敷の掃除を始めました。すると、たまたまいつもより早く学校から帰ってきた子どもが、縁側の置物につまずいてしまい、これを壊してしまったのです。
 「みんなが帰ってこないうちにきれいに掃除をしておこうと思ったのに…」とお母さんは嘆きます。そして「どうして気をつけなかったの」と子どもを怒りました。子どもは、「そんなこといったって、こんなところに置いておくほうがいけないんだ」と、それは自分のせいではなくて、ここに置いておいたお母さんがいけないのだと反論します。
 「お父さんにきちんと謝りなさいよ」とお母さんは言い、「謝るのはお母さんのほうだろ」と子どもは言い返します。
 そうこうするうちに夕方になり、お父さんが帰宅しました。この話を聞いたお父さんは、何と言ったでしょう?「大事なものなのに、なんてことをしてくれたんだ」と怒ったでしょうか。「勝手にいじるからいけない」とお母さんを責めたでしょうか。「日ごろから、おまえは注意力が足りないからこういうことになるんだ」と子どもを叱ったでしょうか。
お父さんは、ただひとこと、「形あるものはいつかは壊れる。仕方ないな」とぽつりと言ったのです。
 その言葉を聞いて、お母さんと子どもは、互いに自分の正当性ばかりを主張していたことに気づいて、はっとするのです。
 もしも、お父さんがそこでもっともだと思われる正論を振りかざして怒っていたら、母も子も、自分の理屈を押し通していたでしょう。けれど、大事にしていたものが壊れてしまっていちばん悲しいであろうお父さんがこう言ったことで、お母さんと子どもは、自分のことを振り返ることができたのです。
 そして、「私がもう少し気をつけておけばよかった」、「いや、ぼくが不注意だったんだ。ごめんなさい」と、ふたりでお父さんに謝ったのです。

大谷光真著『朝には紅顔ありて』角川書店より引用

 日々の暮らしの中で「自分が一番正しい」という傲慢な心になっていませんか。もう少し相手の意見に耳を傾けてみませんか。そうすれば争いが減り、心が穏やかになることでしょう。

合掌

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