今月の法話 2015年11月

思われている 自分に気づく

 以前、昭和三十年代前半を背景にした映画「三丁目の夕日」が大変評判になりました。ちょうど、東京タワーが出来上がるシーンが印象深く残ります。今ちょっと昭和がブームのようですが、私のような昭和世代にとりましては、懐かしく「あゝ、良い時代だったなぁ」と思います。こちらが何も心配ない子供の時代だったのか、子供たちの目も輝いていたような気がします。まだ、戦後の残像もありましたし、テレビも隣の家にお邪魔し拝見する時代でした。どこの家も食べることに必死で、大人が子供と一緒に遊ぶことなどは考えられませんでした。学校帰りも、道草ばかりです。そんな中で色々なものを見たり、友と遊んだり、驚いたり学んだことは、学校で学ぶことよりも、今振り返りますと多かったような気がします。今と比べると、便利さなどとはほど遠い、貧しい時代でもありました。
 今は何でもあります。あの毎日出されるゴミの山を見ますと、豊かな時代とは何なのかをつくづく考えさせられます。飽食の時代、有り余るモノの洪水、捨てる技術の本さえもがベストセラーになる異様な光景、そんな姿があちこちに見られます。
 民俗学者宮本常一さんは、昭和の時代を聞き書きの形で全国を旅して民俗学の分野に大きな貢献をなされました。この宮本さんが常に言っていたことは「道草を食え」でした。今では死語になったような道草です。効率とか便利さばかりを追っていては決して出てこない言葉です。
 宮本さんのこの考え方は父親の善十郎さんから受け継がれたものです。善十郎さんは家が貧しかったので若いときには南太平洋のフィジーのサトウキビ畑に出稼ぎに行ったりしたり、流れ大工になって各地を転々といたしました。学校もほとんど行かずじまいです。「汽車に乗ったら窓から外を見よ。田や畑に何が植えられているか育ちは良いか、村の家は大きいか小さいか、屋根は草葺きか瓦屋根か、駅に着いたら人の乗り降りに注意せよ、駅の荷物置き場にどういう荷が置かれているか、そういうことでその土地が富んでいるか、貧しいか、よく働くところかそうでないか、よくわかる」。又「人の見残したものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。焦ることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いて行くことだ」と。学歴の何一つない善十郎さんのまさに生きた知恵であります。効率や速度を競い合う中からは決して出てこない言葉です。息子の常一さんは父親の言葉を身をもって実践されたと思います。名も無き辺境の島々やいなかの村々を歩き回り、庶民と呼ばれる人々とのふれあいの中で自らの民俗学を構築していったのです。これは道草をしなければ「見えるものも見えないよ」と言われているようです。
 この言葉に出会ったときこれは「仏教」そのものでないかと感じました。仏教は「気づき」の教えです。忙しさや、自らの欲のため見えるものも見えづらくし、いや都合の悪いものは見ようともしないのが今の私ではないかと知らされます。 いつでも私中心では気づくことはできません。「如実知見」は仏教の基本です。現代はこれが実は難しくなっているのかもしれません。都合の悪いものは隠し、いやなものは、見なければ済むような時代を私達は造ってしまったのですから・・・それは真実というものも見えづらくしてしまったようです。私達が見落としているもの、感じられなくなってしまったこと、道草のススメを提唱したいと思います。

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