勝負・損得・善悪 二極化しかできない私
痛ましい事件が続発しています。親が子を殺し、子供が親を殺す、しかも低年齢化も伴い大きな衝撃を社会に与えています。理解が出来ない、気持ちがわからない、心の内面の陰が伝わりづらくなっています。これらのことに対し、よく少年法の改正やら、法律の整備等で解決しようとします。たしかに人間は法を遵守しなければならない事ですし、法によって裁かれなければならないでしょう。しかし自分も同じ人間として罪を犯すべき可能的存在である人間ということがすっかりと忘れられているようです。いつのまにか自分はそのような世界とは無縁の存在であり、評論家として高見に立って眺めていることか・・・
「起世経」という経典に、あの地獄の裁判官、閻魔大王が、毎朝焼きただれた鉛の湯を飲んで悶絶の苦しみを味わった後、裁きの場に臨んだ話が書かれています。人間を裁くのにはこれだけの苦痛が伴う、いや伴わなければ人を裁くことは出来ないことをこの話は物語っているのです。 重大な罪悪、殺人や、傷害事件を起こした人間に対して、「あんなやつは人間じゃない、死刑にしてしまえ」「極刑を望みます」等という意見がよく聞かれます。きっと極刑にしても被害者の家族には、それでも「殺されたものは、帰らない」という悔いが残るように思います。二極化の傾向はますます強まっています。でも人間とはそんな単純なものではありません。宮崎勤、宅間守、浅原彰晃、私の内なる中に彼らが潜んでいないといいきれるでしょうか。あらゆる可能性を持った存在が実はこの私なのです。縁が触れればどのようなことでも平然としてしまうような存在なのです。平和時には殺人は重大な犯罪であるにもかかわらず、戦争時では人殺しのススメです。交通事故で一日二十人の人が亡くなっているのに、自動車撲滅運動は起こってきません。こんな矛盾した存在がこの私なのです。
自分を棚上げして他人を誹る、それは人間としての自己凝視とか罪悪の意識の世界からはかけ離れていることです。親鸞聖人が己を嘆かれたのは、まさにこの自己の内面の醜さへの、凝視だったのです。「愚禿、罪悪深重、煩悩具足」これらの言葉が血ヘドを吐きながらの親鸞聖人の告白のように聞こえるのです。 多少善行をしたところで、それは「してやった」とか「自己満足」と言われる世界のなにものでもないという厳しさの場に立っていたのです。なまじっかの善行は逆に自己欺瞞を呼び起こし、嘘、偽りの自己の発見にしかならないのかもしれません。安っぽい欺瞞に満ちた人間のヒューマニズムを否定されたのが宗祖だったのです。今年は戦後七十年です。平和のための戦争、幸せのための戦争、どんな理由をつけたところで殺し合いが戦争です。親鸞聖人は人間が、いや己が生きていく哀しみ、欺瞞さを見続けた方です。人間は誰かを傷つけ、罪を犯すことなく生きることが出来ないからこそこのような悲しみ、痛みの言葉が出てきたのでしょう。人間の人為的努力の限界を知り、どんなことをも為す可能性のある人間である私を見続ける、そのことが宗教的生き方とは申せませんでしょうか。南無阿弥陀仏の世界はギリギリの私を知ることなのです。そのような絶望が救いに転じていくこれが念仏の妙味と言われるものです。だからこそ自己をごまかさずに生きたいものですね。多忙な惰性の生活をちょっと振り返る事の出来る動物が人間なのですから・・・・・
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