今月の法話 2015年3月

どんなときでも必ず救うと 誓ってくださる仏さま

 もう東日本の震災より、4年過ぎました。この災害が起こったとき、なぜ「被災する」人と「被災をうけない」人が出来るのか、人間の不条理さを考えさせられました。それが「前世からの定めだったのだ」「人生は無常だ」、はては「天罰だ」発言までいろいろな意見がありましょうが、不条理としか言いようのないことです。あの災害の後「がんばろう日本」「犠牲になられた方に心より哀悼の意を表します」「被災された方にお見舞い申し上げます」「元気を与えるために何かしたい」「私はあなたと共にある」「被災者に寄り添う」と、多くの人々が声高々に宣言し、マスメディアもそれを喧伝します。そのことに異を唱えようものなら日本人でないような印象さえあります。しかしそこに言葉の持つ怪しさが感じられてならないのです。勿論、人々の善意は疑わないとして本当にこのことを「やり抜けるのか」思いますと、とてもとてもそのことをやり通せない「私」がいます。無数の家や車が津波に流される映像を見るたびに、人間の無力さを思い知らされます。映像には映らなくても、あの波の中におそらく飲み込まれていた人たちを想像しますと、何も出来ない人間の力とは何なのか、なおさらにその事を思います。私たちはこの人間の無力さ、不条理なことを忘れていたのかもしれません。進歩とか成長とかを旗印に、何でもすべてを人間の「思い通り」出来ると思っていたのだということを。お金と科学技術を使いながら追いかけてきました。便利さと楽をしようと、思い通りの世界を造ることが人間の共通目標としてきました。地震予知とか、想定内もすべて人間の思い通りの都合の良いように設定されたということでしょう。人間の設定した条件でしか成り立たない事を、設定した人も設定された方も忘れていたのです。想定外のことを考える事を止めていたのです。想定内で済めば災害は起こらないはずなのです。人間が何でも思い通りにしようする心を仏教では「無明」と言います。このように出来たのが原発ですから責任の一端は誰というより「人間」そのものの根幹にあると思います。この震災は人間の思い通りに生きることの挫折を意味しています。視点を変える大切さを思います。又、元の通りに復興すれば良いのか、原子力がだめなら風力、火力、太陽光、に転換してということで、やはり再び「人間の思い通り」にするつもりなのでしょう。問い直すはこの思い通りにしようとする「無明」の心ではないでしょうか。進歩や成長を追うことを修正する理念が大切なのです。「国難」とか「非常時」とか言われていますが「みんなが思い通りにする」のではなく「節度とほどほど」が求められます。それは我慢などではなく自分の無力さを知るところから始まります。仏教の「人間の無明」が苦の原因ということはこのことを言っています。どんな時も見捨てない阿弥陀様でありますがそれは「無明の私」に気づかせていただくことの大切さを思います。仏教は必ず厳しさと安らぎの2面性があることを知るべきであります。「無明の私」見通され、摂取して捨てない誓いを持たれている方を阿弥陀様と申します。

印刷用PDFファイルはこちら
PDFファイルをご覧いただくには、Adobe Reader(無料)が必要です。ダウンロード

法話バックナンバー