今月の法話 2014年1月

仏の道とは身をつつしみ言葉をつつしみ思いをつつしむ事

 自己主張の強い時代です。そうでもしなければ置いてけぼりをくらうような世の中です。権利、権利の大合唱、政治家先生も選挙民を満足させるのに大変ですね。その中で自己を否定して行くことは前世紀の化石のようなものかもしれません。奥ゆかしさとか、上品とか、思いやりさえも消えていくような気がいたします。自己否定は限りない優しさが必要です。フランスの箴言家ラロシュフコーは「本当の優しさを持つことの出来る人は、しっかりとした心構えのある人だけだ。優しそうに見える人は、通常弱さだけしか持っていない人だ。そしてその弱さはわけなく気むずかしさに変わる」と。しっかりとした心構えは自立的であり他人に依りかからず、自分に厳しい人でありましょう。真に思いやりとか察する事は、悲しさ辛さも感じ取れなければなりません。恋人選びでも男女とも理想の相手は「優しい人」が上位にきます。しかしどうも優しいというより、弱い人と間違っているのではないでしょうか。何でも言うことを聞いてくれる、欲しい物ものは買ってくれる、いつも一緒にいてくれる、このような人が優しい人と言われているようです。本当の優しさはそのようなものではないのです。「やさしさが欲しい」「思いやりの心がほしい」とかよく言われますが、先に与えようとはしません。「優しい」という字は人を憂うと書きます。真に人を憂う人が優しいのです。優しさを欲しがってばかりではいつまでも優しさには会えません。優しさは慈悲と同じように与え続けていくものなのです。
 奈良時代の昔、聖武天皇の后の光明皇后は深く仏教に帰依し、貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して人々を助けました。逸話では千人の病人を救う事を仏に誓い九百九十九人までなおして、あと一人というところで体中に血膿を吹き出した患者が現れ、それを吸い取ってくれれば病は治るといいます。皇后は美しい唇を患部に当てて血膿を吸い取ってき吐き、幾度も繰り返します。背中、お尻、かかとの先まで全て吸い尽くします。終わった途端に病人はまばゆい仏の姿になって天に昇っていったと言われます。(亀井勝一郎・[美貌の皇后])今は表向きだけの優しさの何と多い世の中でしょうか。優しささえも自己顕示の道具にしてしまいます。優しさを売り物にし、優しいそぶりで人を欺くことなどは日常茶飯事です。己の都合の優しさとか思いやりではたまったものではありません。しかもそれが己の都合とも気がつかずにいることです。自分では優しさを充分に持っていると思っているのです。優しさも自分勝手な優しさでのようですね。悲しいことですがよくよく考えますとそのような心を持っているのが私です。浄土真宗はそのような自己を否定し、つつしみを持って歩む教えです。得手勝手な煩悩まみれの私であり、良いことを為したと思う心、優しさを与え続けていると思う心、これこそが迷いと言うのです。どんなことをしてもこの心から逃れることが出来ず、自己否定を生涯続けながらも、優しさ、思いやりを出来ないながらも求め続けるのが念仏に生きるということです。この自己否定が、仏と共に生きる真実の自己肯定の生き方であります。自己顕示が何よりも好きな私を忘れるなと念仏は教えます。

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