今月の法話 2013年11月

与えられているものの大きさに気づかないから不満なのだ

 凶悪な少年犯罪、自殺者が約三万人の異常な社会、そして何事も他人事として処理されていくこの日本、そんな現象があちこちで見受けられます。悲しみを我が事として受け止められなくなってしまった、感受性や想像力が乏しくなってしまった、私たち・・・・  いつのころからこんな人間たちが多くなってきたのでしょうか。高学歴社会になり誰もが「賢く」「偉く」なったはずなのに。精神科医・神谷美恵子さんの講演での言葉です。「知識などといったものを全部棄てて、無にかえって肌で人生を感じとってみる、そうすれば棄てたところから豊かな感受性がよみがえってくる」
 神谷美恵子さんは大変な知識人でした。海外留学を経験し、それから後も医学の道を志し精神科医として、又大学教授などの道を歩んでいます。その知識を棄てて裸の自分をみさせてくれたもの、それは瀬戸内海にある長島愛生園でのハンセン病の患者との出会いでした。歴史的にも、現在においてさえもなお患者の方々は差別と偏見に苛まされ続けています。この実態に触れたとき、神谷さんは自分の知識や、恵まれた己の境遇に「負い目」を感じて行くようになってきます。神谷さんは「べつに理屈ではない。ただ、あまりにむざんな姿に接する時、こころのどこかで切なさと申し訳なさでいっぱいになる」と述べています。知識は豊かなはずなのに、自分の知識にさえ「負い目」を感じるようになっていったのです。それからの神谷さんは知識という虚像をかなぐり捨てて体ごと患者と向き合っていきます。そうしますと今まで見えないものが見えてくるようになります。そうなりますと逆に今まで学んだ知識や経験が倍になり生きてくるようになります。介護の問題、障害者の問題、あらゆる問題の解決に不可欠な事、それは「身代わり」感覚ではないでしょうか。感受性の大切さを思います。生きる哀しみを、いつのまにやら、私たちは忘れてきたようです。楽しいこと、豊かなことばかりを追い求め、他者に寄り添って歩む事が、置き去りにされ、己の快楽の追求に汲々としているようです。神谷さんはキリスト教、そして仏教にも強く影響を受けています。宗教者としてキリスト教の愛と、仏教の慈悲行を実践されたのです。力の強い恵まれた人たちは、弱者に負い目を持って生きる事を示したのです。現実の今の社会はどうでしょうか。これとは逆に進んでいるように思えるのですが・・・・ 与えられているにもかかわらず不平不満の明け暮ればかりのようですね。金儲け、権力争い、そして勝ち組負け組があからさまになっていく社会が豊かとは言えません。百万人の勝者に目を向けるのではなくたった一人の敗者に目を注ぐのが仏教の心なのです。 しかしこの事が出来ないのも事実でありましょう。その自己への冷徹なまでの眼差しを仏法によって知らされ親鸞聖人は自己を嘆き詩います。その嘆きを感受性とは申しませんでしょうか。「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」(悲しい事ながらこの親鸞は愛欲の果てしない海に没し、名誉や財産に迷いまどっています)と。

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