今月の法話 2013年9月

聴聞はお浄土への道しるべ

 少子高齢化が進み、子供が公園や広場から姿を消そうとしているようです。子供はいつでも王様であり、社会の宝であり、将来の時代を背負っていく人々です。大変な問題を孕んでいる事です。
 しかしそれとは別に、大人になりきれない人が増加しているようです。もちろん、ここで言う大人とは身体的なことではなく、精神的な大人です。バブルの頃からでしょうか、誰もが浮かれ気分になり、お金のみを追っかけるようになってから、その傾向は強まり、今も進んでいます。ネット社会の株遊びごっこ、会社を平気で売り買いする会社ごっこ、政治家の政治ごっこ又以前のオウム真理教のように信者にお釈迦さま時代のお弟子の名前をそのまま名付けるような仏教ごっこ、等落ち着かないごっこ社会を大人が作っているように思えてなりません。
 社会が成熟していない、子供じみた社会を形成しているような出来事があちこちで起きています。人間同士の関係が希薄になってきたのか、甘えが満ちあふれているのか、楽な道を目がけて一目散に歩んでいるようです。「そんなに人生は楽ではないよ」と言う大人たちが、その楽な道を選ばせようと我が子には必死です。今学校の教師が一番大変な仕事は何でしょうか。イジメ、学級崩壊、学力低下、どれも大事な問題ですが、これらのことよりも神経が磨り減ることがあるのです。
 ある先生が言っていました。「とにかく父母ですよ。父母との対応に神経を八十%使います。父母との関係の煩わしさが無ければもっと子供と良い関係が築けるのですがね・・・・」と。そしてなぜなら、近頃の父母は我が子の事に関してはビックリするような事を平気で言うようです。「どうしてウチの子はイジメられるのですか、どうして成績が落ちたのですか、足が遅いので運動会は止めてください」、そうして子供の家庭ですべきシツケさえも教師に望んでくると言います。あまりにも身勝手な自分のことのみを主張する親が多く、その相手をするのが苦痛の教師が多く、教師の登校拒否、又長期休暇というのも決して少なくは無いのです。
 ところが父母に言わせますと逆の事を言います。「まだあんな若造や、小娘のような半人前の先生などにはウチの子供の教育はしてもらいたくない」と完全な教師不信であります。どうやら父母は先生を、先生は父母を信頼していないようです。双方が「お前が悪い」です。
 かわいそうなのはその間に入っている子供たちなのかもしれませんね。大人と子供の違いは何なのでしょうか。それは「自分が見える、見えない」の一言につきるのではないでしょうか。己の心ほど見難いものはないのかもしれません。仏教の世界はこの見難いものを知らされるのが仏法聴聞ということなのです。ですから仏法を聞くと言うことは「私」を聞く以外の何ものでもありません。「聴」とは耳をそばだてること、「聞」とは聞こえてくる事です。今の時代はこの「聞く」事が下手になったのかもしれません。話すこと、自己主張することには何時間でもしゃべります。しかし聞くことはどうでしょうか。自分の主観がどれほど誤った見方になっているかも気がつかないのです。仏法は「聴聞」につきるのです。見がたい私を知らされる大事さを思います。

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