今月の法話 2013年6月

煩悩に浸かる私は おかげさまさえ邪魔にする

 煩悩に浸かる私は おかげさまさえ邪魔にする「煩悩即菩提」(煩悩はそのままさとりに)、又「不断煩悩即涅槃」(煩悩を断たずして、涅槃を得る)、と言われます。世間常識から考えますと、おかしな事ですね。煩悩を断ちきって悟りに向かうと言えばわかるのですが、煩悩がそのまま悟りに変わるのですから・・人間は煩悩を頼りにし、楽しみ、そして苦しみます。そうしながら一生を終わっていくものでありましょう。「煩悩は家の犬、打てども去らず」とも言われます。煩悩の姿は「貪欲」「愚痴」「瞋恚」の三毒の煩悩を中心として、それにともない性欲、利欲、名誉欲、愛欲、独占欲なども付随してきます。これは人間の本性のようなものであり、言い換えれば人間の生存の営みの活力ともなっているのです。人間が生きているということは、この煩悩に振り回されているといっても良いのです。しかもここから一歩も逃れることは出来ません。人間は一人では生きられません。人間は互いに生きるために秩序を守り、道徳を造り、法律を制定し煩悩の暴発をくい止めてきたのが、人間の歴史なのかもしれません。煩悩のままに生きていくならこの世は殺戮、戦争、奪い合いばかりでありましょう。たまには暴発し、悲惨な事件や、戦争などを起こしてきましたが。いや、今でも暴発があちらこちらで見られますね。戦争などはこの煩悩がむき出しになった姿です。これは国の持っている煩悩かと言いますとそうではありません。私達一人一人が持っている「いざとなれば何をするかわからない」という、根っこがあると思います。それは人間というより「私」そのものが持っているものです。過去の戦争の糾弾、戦争責任を論じるのも大切でありますが、いつもどこかに「その時代に私が存在したら」・・・という思いを持つのも必要だと思います。その時代に自分がいたら、戦争に進んで加担していった、私だったような気がいたします。他人ばかりが身勝手な煩悩を持っているのではなく、まずこの私が重たい煩悩を持っているとの、理解が大切です。自分がそうであることは他人もまたそうなのです。煩悩の仲間と言ってもいいのです。人間を本当に理解するということは、自分の中にある一番恥ずかしくて、醜くいものを、相手の中にも見出し、逆に相手の醜い部分を自分の中に発見した時ではないでしょうか。普段は虚勢を張り、見栄を張り、良いところばかりを見せつけようとしている私ですが、そのような弱さを互いに発見したときにこそ、人間同士のつながり、安心感が生み出されてくるように思えるのです。私達は煩悩によって結ばれ、生き続けてきたのです。しかし煩悩は生きる力であると共に、人間を滅ぼす原因をも持つ併せています。仏教はそのために煩悩からの解脱を説いてきました。しかしそのことは逆に煩悩からの解脱がいかに困難なのかを思い知らせるためだったのかもしれません。「無私」「無欲」の人は素晴らしいと思います。しかし残念ながら私には「欲のかたまり」「煩悩むき出し」という人の方が私にはずっと近いのです。どんなに本性を隠そうとも、私の根っこはそっちの方向なのです。どんな凶悪な犯罪者も、欲のまま金の亡者になっている人の中にも私は確かにいるのです。人間同士が真実につながっていくのは清らかな上辺の飾りたてたものではなく、このドロドロした煩悩まみれの自分を発見する事なのです。
 [煩悩を通して本当の私を知る道]、これが仏教です。

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