今月の法話 2013年4月

人の欠点に気づくのは 私も同じ欠点がある

 過大評価、過小評価、私たちは他人を見るときに実に多くの見方をします。あてがはずれますと、「あんな奴だと思わなかった」「見損なった」でありますし、良い方に向きますと「見直した」「おどろいた」であります。他人の心をのぞき込むのは、結構難しいものですね。
 自分自身も他人の評価には敏感なものであります。「良く見せたい」「嫌われたくない」との思いから必死になって自分を取り繕って、背伸びをしながら生きている方が多いようです。
 この事は一概に否定することはできません。この思いが自分を磨いたり、上品さを生み出す原動力にもなります。人間関係を上手に保つのにはこのような事も必要な要素でありましょう。
 しかしその事に執着しすぎますとおかしくなってまいります。背伸びをしている自分が本物なのか、何が自分なのかさえも見失われてきます。本当のことは他人は本人の前では言わないものです。陰口ならいくらでも言いますが(悪評は)・・・・・他人の評価は自分には伝わってまいりません。実はその聞こえない部分こそが正当な自分の評価のようであります。
 そうなりますと私たちは自分自身を「カン違い」しながら生きているのかもしれませんね。
 社会的地位や、名声、富がどれだけ私たちの自己評価を誤らせていることでしょうか。
 世の中全体がカン違いしながら進んでいると思うのは考えすぎでしょうか。高い地位に長く就いていますと、その高さが自分自身の評価と思い、学歴が高いとそれが自分そのものと思いこむ、それは自分の着ている服と一緒で、脱いでしまえば、裸の自分がいるだけなのです。「自分の事は自分が一番よく知っている」こんな事を言う人は実は何も自分のことはご存知ないのです。自分を過大視過ぎますと、自惚れ、傲慢になりますし、過小視しすぎますと卑屈、ねたみ、そして自暴自棄に陥りやすくなってしまいます。「悲しきかな名利の大山に迷惑して」(名声とか利欲に迷いに迷い)の私そのものなのです。なぜそんなことが起きるのか、それは等身大の自分に気づかないところからきているのです。他人の事、他の情報などには分析もし、よくわかるようになってきています。しかし自分自身の事についてはどうでしょうか。学校でも会社でも学ぶのは私ではなく私以外の事を研究していることが多いようです。他のことには立派な評論家、分析家になっていても自分についてはサッパリのようです。まな板に置いて切り刻むのは私以外であります。仏教はこの私を仏法のまな板に乗せて切り刻むことです。それは他人と比較することでもありませんし、勝ち負けを競うことでもありません。比べるモノもない、たった一人の私を凝視することです。
 それは、人として生まれた有り難さ、かけがえのない本当の等身大の私との出会いです。

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