「なんまんだぶ」 手を合わせ「ありがとう」「ごめんなさい」と歩んでゆく
手を合わせ「なんまんだぶ」「ありがとう」「ごめんなさい」と歩んでゆく近頃、あまり聞かなくなった言葉に、この『ごめんなさい』があるように思えます。政治家や、社会的地位の有る方からは、『遺憾に思う』とか『申し訳ありません・謝罪いたします』とかの言葉ばかりです。どうしてこの『ごめんなさい』が聞かれなくなってしまったのでしょう。
『ごめんなさい』と違って『遺憾に思う』等は、口先ばかりのような気がいたしますね。銀行破綻で謝ったり、事故で会社の責任者が謝ったりするときにこの言葉がよく出てまいります。でもこれでは何で謝っているのかサッパリわかりませんね。会社が謝っているのか、社長が謝っているのか、何に対して謝っているのかボンヤリとして何か何だかわかりません。これは『責任』の問題と密接につながっているようです。ある人が『日本人の罪の意識は【世間の皆様おさわがせ罪】だけだ』と言われましたが、そんな感覚での謝り方のようです。確かに、『世間の皆様に御迷惑をかけた』とかばかりで本当に自分が悪いという感覚は希薄のようであります。
戦後の欧米的な感覚も、このことに拍車をかけているようです。先に謝った方が負けという社会です。つまり謝ったら責任問題、そして賠償問題まで発展いたします。訴訟社会的な要素が日本でも始まると言われていますが、謝る事で争いが不利になる事でも考えていなければならない社会がやってくるのでしょうか。他人の足を踏んでも『お前の足がそこにあるからだ』とでも言っているようです。先に謝ったら負けの風潮はゾッとしますね。それほど今はえらそうな正しそうな人が多いのでしょうね。あやまれないのはどっかに自分は『間違ってはいない、』『みんなもやっているから』とかの意識があるからなのでしょう。
浄土三部経の一つ『仏説阿弥陀経』の特徴は無問自説の経と呼ばれています。お経は普通、お釈迦さまがだれかの質問に答えられる形式で始まりますが、『阿弥陀経』は問わず語りに、釈尊自ら説法を始められています。このお経の中で三十六回も名前を呼ばれた方がおられます。お弟子の中で智慧第一と呼ばれた『舎利弗』です。なぜ智慧がある舎利弗はそれほどまで名指しされ説法をうけたのでしょうか。維摩経の中に、この舎利弗に対して『舎利弗よ、あなたは智慧第一であるという意識が頭にこびりついている』と書かれています。それほどまでにこの舎利弗はえらい人だったのでしょう。又そのえらさ故におごり、執着をしていたのでしょう。だからこそ先の阿弥陀経の中でお釈迦さまは三十六偏も『舎利弗よ、舎利弗よ』と呼びかけられたのでしょう。このえらさを打ち砕かれたところに仏法の救いがあることを示されたのがこの阿弥陀経であります。
人間の知性、理性の限界を知ることが仏教入門の出発点なのです。知性とかに振り回されていたら決して『ごめんなさい』は出てこないでしょうね。仏教を聞くのは学問的にえらくなったりする事ではないのです。そのような傲慢なことではなく逆に愚かな我が身を知らされる事にあるのです。社会的に名誉も富も兼ね備えた人よりも、無知貧乏であっても念仏申される方の尊さを思います。自分を厳しく見つめ、自らの心をよく知っている人こそが仏法では尊い方なのです。
「おろかなる身こそなかなかうれしけれ 弥陀のちかいにあふとおもへば」(良寛)
『ありがとう』『ごめんなさい』と素直にあやまれる『私』になりたいものですね。
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