今月の法話 2011年7月

迷うものは道を聞かず 光のない生活には 方向がない

 仏教で私たちのことを「衆生」といいますが、この衆生というのは、「衆多生死」という言葉の略されたものでもあります。「衆多」とは色々な多くの命の姿を持ってきたものということであり、「生死」は生まれ変わり死に変わりして迷い続けるもののことです。しかし、衆生と聞いても、自分の命が迷っていることにも気付かずに、日々を欲望の達成のために生きている人がほとんどです。特に現代のような、欲望の増大した時代においてはなおさらのことでしょう。
 私の知人に、超一流大学を出て、ある林業関係の商社に勤務されていた人がいました。この人は、木材を調達するために、世界を駆けめぐり、仕事をバリバリとこなして、出世も早いほうのようでした。
 ところが、過労のためか、五十歳を過ぎた頃に、脳内出血で倒れてしまいました。幸いに命は助かりましたが、半身麻痺の後遺症が残り、今までのように世界を駆けめぐることもできなくなり、とうとう閑職に追いやられてしまいました。
 それからというもの、この人は、「自分の身体がこんなことにならなければ、あんなやつに越されること無く、今頃はもっと出世していただろう。また、会社はなんて冷たいのだ。自分が頑張ったからこそここまで業績が伸びたのに、こんな閑職へ回しおって。」と不平不満を口にするばかりでした。そうしてとうとう六十歳を過ぎた頃に、不平不満の中に死んでいきました。皆さんはこの人の生き方を聞いて、色々と思われるかもしれませんが、大なり小なり、同じような生き方をしているのが私たちの姿ではないですか?無常の命の行き先を求めることも無く、本当に進むべき光の道に出会うこともできず、迷いの中に死んでいくだけでは、せっかく人間として生まれながら、余りにも寂しいことです。

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