今月の法話 2010年10月

弱く愚かな私 支えられている私

 仏教では、智慧の無い者を「愚か者」といいます。「愚か者」というのは、真理を知らないことによって、間違った行いをする人のことです。これを読んで、自分は常識もあり、道徳も守り、人に迷惑もかけずに生きている。そうそう間違った行いをすることも無い。だからこれは自分のことではない。と思ったあなたこそ、紛れも無い「愚か者」です。
 いきなりこのような表現をして、怒り出したくなった方もいるかもしれませんね。しかし、よく考えて頂きたいのですが、智慧は仏様の真理を見極める眼であり、分かりやすく言えば、命の在りようを在るがまま見ることです。決して私たちの知恵をいうのではありません。生きとし生けるものは、全て同じ一つの命として存在しています。そして、その命を光り輝かせて生きているはずです。ところが、その光り輝くそれぞれの命を、自分の都合で区別・差別して、愛するもの、役に立つものは大切にし、そうでないものは邪険にして抹殺を図ろうとするのが私たちの偽らない姿であります。他者から蚊の一匹に到るまで、同じ一つの光り輝く命であるのに、自分の都合で、あるものは大切にし、あるものは排除しようとする私ではありませんか?私たちは、このような間違った行いをしていることに気付くことなく、互いに傷付け合い、互いに苦しみながら生きることしかできない「愚か者」であります。そんな私が、仏様の智慧によって、愚かな私と知らされたとき、生きとし生きるものの命の尊さに驚かされ、その生きとし生きるもの全てに支えられている私であったのだと感動を覚えることでしょう。

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