今月の法話 2009年7月

安穏は お念仏申す生活から

 安穏ということばは仏教語ではありません。それでいまの若いひとは安穏になにを感じるかと何気なく尋ねてみました。漢字テストではありませんがいくつかの文字を書いて思いを聞いて驚きました。
 「あんおん?」「あんじょう?」
 その読み方さえ知らない人もおり、きわめて一般的ではないのだと思い知らされました。仏教語はよくむつかしいと言われ、それが仏教をとっつきにくいものにしていると批判されています。ですから私はこれまで、法話の中でできうる限り仏教語を使わずにと心がけてきましたが、普通のことばだと思って使っている中にも、特に若い人びとには全然響いていかないことばを無意識のうちに使っていることに気づかされ反省しています。
 安穏は親鸞聖人が、「世の中安穏なれ、仏法弘まれ」ということばのなかで使われたものです。私は親鸞聖人がこれを使われたのが、「世の中安穏なれ」と社会に目をむけられたなかで使われていることに注目しています。宗教というと、とかく心の問題とばかり考えられています。また安穏を辞典で引いてみても、「落ち着いて気楽なこと、穏やかなこと」と心の安静な状態が真っ先に書かれています。しかし、聖人はもちろん心の問題を求道の大きなテーマに道を歩まれた方ですが、ここでは世の中への願いとして「安穏なれ」とおっしゃっていることが私にはうれしく思われてなりません。
 アメリカのサブプライムローンの問題が世界に波及して、日本も不況に見舞われ、沢山の人びとが突然職を失ってしまいました。社宅を追い出されたり、当てにしていた退職金も支給されず、ローンで購入した住宅を手放さなければならない人びとも出ています。
 マスコミの過剰報道があるのかも知れませんが犯罪の多発が気になります。通りすがりのひとのバックをいきなり引ったくって逃走するとか、コンビニ強盗はしょっちゅう報道されています。それが若者だけではなく、五十代、六十代のひともおりました。
 このような経済状態にならなければ、〝普通の人〟として生活していたであろうと思うと、犯罪は許されることではありませんが、一面気の毒にも思われてなりません。
 犯罪は起こさなくても人びとの心が荒廃しているようにも思います。思えば、親鸞聖人が生きられた時代はもっと厳しい時代でした。そのなかで「世の中安穏なれ」とおっしゃられました。
 その安穏を私たち念仏に生きていると思っている者は、心の問題に限定しがちなところがあるのではないでしょうか。しかし、聖人が先ず社会に向けて願われていることに心したいと思います。
 ただ社会に目を向けていればいいということではありません。社会が豊かになったらすべての人が幸福になるというものでもありません。平和な社会は個人の意思を越えた構造的な問題を抜きにしては達成できませんが、しかし一人ひとりの平和への願いをもったたゆみない努力なくしては実現できません。
 ここに念仏申すことの大きな意味があります。「念仏申す」とは、単に南無阿弥陀仏と念仏を称えることをいっているのではありません。お念仏とは、阿弥陀如来が私たちに「間違いなく救う」と願ってくださっている仏心です。如来の叫びであり、喚び声です。そのお心が私に至り届いてくださったことを念仏申すというのです。
 社会が安穏であってほしい。そのために社会に念仏のお心が伝わってほしいとの聖人の願いが、「仏法弘まれ」とおっしゃらずにはおられなかったのではないでしょうか。それなくしては、私たちの真に安らいだ生活もあり得ないのですから。

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