今月の法話 2009年3月

目で見ることはできない 命の尊さを知る

 なぜ私はいまここに生きているのか?そのことを自分自身に問うてみて、すっきりとその答えの出るひとは少ないのかもしれません。
 考えれば考えるほど、自分を支えてくれているものの多さに驚きます。生きているうちにそのすべてを知ることができたら、どんなにこころ豊かな人生を歩むことができるだろうかと思いますが、残念ながらそれはきわめてむずかしいことといわなければなりません。そして、皮肉なことに私のいのちを支えている最も大きなものほど、見えにくく、また忘れているように思います。「失って知る親の恩」という諺がありますが、逆もまた真なりで、一方で親は子によって支えられていることが見えにくいものです。子どもにさえ支えられていたと本当に気づくことができるのは、子どもを失って悲嘆のどん底に沈まなければならなくなったときなのかもしれません。
 親は子どもを育てていくのですが、同時に親は子どもに育てられています。そのことに骨の髄から気づかされるのは、育てていると思い込んでいた子どもを失ってからというのは、余りにも情けないと思いますが、しかし、その悲しみの底から育てていた喜び、育てられていたしあわせを知らされたひとは多いのではないでしょうか。大切なひとを失った方から届けられる温かさややさしさが、何ともいえぬ心の深みをもっていることを幾度も感じさせられたことがあります。そんなときに私を含めて人間というものは愚かではあるけれども、素晴らしいいのちを生きているのだなぁと感慨深く知らされてきました。
 「目に見えるものがすべて」という風潮が強まっています。いつ頃からそうなったのか、わかりませんが、目に見えないものは無いに等しいように扱われて当然というのが一般常識にさえなっています。それは家庭や学校教育を通して長い時間をかけて形成されてきたものでもあります。
 私には忘れがたいひとつの想い出があります。それは中学生のときのことですが、理科の授業で解剖実験が行われました。解剖の「材料」に使われたのは、かえるでした。私の少年時代には季節になるとかえるがあちこちの水たまりで鳴いていたものです。そのかえるをつかまえてこいと言われ、私たちはそれぞれ一匹ずつかえるを学校につれていきました。理科の実験ということになり、先生はかえるに麻酔薬をかがせました。逃げようとしていたかえるは気を失ったのか、動かなくなりました。実験台の上でかえるの四肢は釘付けにされました。先生は頭の中はどうなっているかを教えてやるといって、頭部にナイフを入れていきます。人間でいえば頭蓋骨に当たるのでしょうが、そこを上手に切り裂いて脳の部分が見えるようにしました。脳のあちらこちらに刺激を与えると、麻酔のかかったかえるがそれに反応して体を動かしました。そして、脳の指令で体は動くのだと先生が教えます。さらに腹が切り裂かれました。とぐろを巻くように内臓が飛び出しました。そこで先生は内臓を注意深く引っ張り出してその部位を説明します。まだ心臓は動いていました。血管に当たると思われる筋を切られてもしばらく心臓の収縮は止まりませんでしたが、やがて動かなくなりました。
 「かえるも人間もたいした変わりはないが、ところでお前たちにかえるの魂は見えたか?そんなものはないんだよ」
 先生がそう言って授業は終わりました。目にみえるものしか存在しないのだと教えたかったのでしょう。
 けれども、そのときに使ったナイフなどの解剖用セットはいまも私の引き出しの底に五十年以上も捨て切れずに置かれています。思えばそのナイフたちは、いのちの本質についての問いかけを半世紀にもわたって私につきつけてきたのでした。

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