今月の法話 2009年1月

生かされていると 気づくからこそ言える ありがとう

 いま生きていることを、当たり前と思いますか?それとも不思議に思いますか?それぞれがそのことを、改めて自分自身に問い直してみませんか。
 つまらない問いのように思えるかもしれませんが、生きていくなかで起きてくるさまざまな問題に対する一人ひとりの態度の違いの基本に、何とはなしに思っているこのような生命感(生命観というほど哲学的に整ったものではなくても)の違いが、深く影響しているのではないかと思えてなりません。といっても、むずかしく考えることもありません。
 「私はなぜここに、いま生きているのかなあ?」
 ぼんやりとでも、そんなことに思いを廻らしていると、ささいなことからとてつもない大きなことまでが、いまの私のいのちのありように深く関わっていることに気づかされてきます。
 学生時代に釈尊の説かれた基本的な教理として「縁起」を教わったとき、私はその説くところを全面的に理解することができませんでした。縁起とは、世間でよく使われる「縁起がいい、悪い」「縁起もの」という意味ではありません。すべてのものは関係性のなかにあり、ひとつとして他とつながりなく存在しているものはないという〝真理〟を、あらゆる分野のことをむずかしい用語を駆使して説いています。私は頭を抱え込んでしまいました。それもそのはずです。釈尊のさとりとは、縁起の理法を体得するということなのですから、仏教学の入り口に立っているともいえない私にわかろうはずもなかったのです。そんな私がまさに薄紙を剥ぐようにとでも形容したくなるほど遅々たる歩みで縁起の理法のなかにいる身であったとわからせてもらったのは、わが身に即して思ってみることがひとつのきっかけとなりました。
 わたくしごとですが、これまでに四台の車を一瞬にして全損させています。雪道でスリップして大型トラックと正面衝突して大破事故、道路を踏みはずして川に転落して車は水没、エンジンから火を吹いて車は炎上爆発、コンクリート壁に衝突、横転して大破。すべて私が運転していたのですが、小さな事故まで含めるとまだたくさんあります。それでもこれらの事故で私がけがをしたことも、他のひとにけがを負わせることもありませんでした。運転不適格者と私が一番わかっているのですが、身になにごともなかったとはいえ、思い出しただけでもゾッとします。小学生のときには馬に蹴られて十メートルも飛ばされたこともあり、いまここに生きていることが不思議に思えてきます。それも含めて極度の栄養失調で戦争中に生まれてきて、育つことはないだろうと言われた私が、育つことができ、しかもこうやって数十年の人生を恵まれたことは、不思議中の不思議だとしばしば思います。そして、事故や病のときに私を支え、助けてくださった方がいなかったことは一つもありませんでした。これまで生きてきた経過をたどってみても、今日一日のことを思い返してみても、私が誰かのためを思ってしたことよりも、質量ともに、はるかにしていただいたことの大きさ、多さに気づかされています。
 そのことは抽象的に考えるよりも、これまで体験してきた事実に即して考えてみると、より深くうなずかれるのではないでしょうか。そのとき心の底から「ありがとう」と言える私が誕生するように思います。仏法に出遇うとは、現実に対する厳しい視座を与えられると同時に、ありがとうという心の豊かな世界を恵まれることでもあります。

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