今月の法話 2008年8月

偲ぶとは 情緒や感傷だけでなく 訪ね問い続けること

 偲ぶとは文字通り、ひとを思うことです。さらにただ思うということではなく、懐かしく好意的に思うことで、そこには私たちの心のなかの情緒的なはたらきを含んでいると理解することができます。しかし、標題のことばは、偲ぶということをただそれだけで終わらせてはいけないとよびかけられているように思えます。
 この八月は丁度お盆です。一年のうちで最もひとを偲ぶ月ともなっています。日本人の生活のなかに年中行事となって染み込んでいて、最早仏教行事と限定していうことができないようにさえなっているのかもしれません。八月のある日、教会の前を通ると掲示板に「お盆ミサ」の告知があり、キリスト教流のお盆の過ごし方が書かれてあるのを読み、驚いたことがありました。それほどにお盆が日本人の生活に染み込んでいるということでもあります。
 では、私たち仏教徒にとって相応しいお盆の過ごし方はどのようなものでしょうか。ひとをどのように偲べばいいのでしょうか。
 仏教の挨拶の型は古来より決まっています。それは合掌です。仏さまにのみ合掌するのではありません。あらゆるものに掌を合わせる心をもつことが、仏教徒の基本的姿勢であるということもできるでしょう。そして、どのような心で合掌すればいいのでしょうか。
 ここで多くの人びとは、合掌とは、感謝の心でするものだと考えるのではないでしょうか。それはそれで間違いではないのですが、下手をすると感謝の押し売りになりかねないことも心しておきたいものだと思うのです。感謝とは誰かから押しつけられるものではなく、みずからが感じていくものだからです。
 ところで、「偲ぶ」という視点から合掌を考えてみると、さまざまなことが示唆されます。私たちは亡くなられた方を目の前にしたとき、自然と合掌し頭を垂れています。いわゆる〝味気ない科学的な見地〟に立てば、それは単なる亡骸で物体に過ぎません。
 「物体でしかない死体に頭を下げるなんていうのは、こっけい千万なことだ」
 そう言い放ったひとがおりました。それで私たちの心は落ち着くでしょうか。中国で起きた大地震の被災者を救助に行かれた人びとが、生きて助け出すことのできなかった遺体の列を前に、深々と頭を下げている写真が報道されました。その報道が〝鬼畜〟と思っていた日本人観を、インターネットなどを通して変えさせているといわれていました。遺体を通して〝物体〟を越えた何かをそこに見るからこそ、私たちは掌を合わせ、頭を下げるのではないでしょうか。中国で地震の犠牲となった遺体に頭を下げる救助隊の方々の心は、ことばにならない複雑なものがあったように思います。何よりも生きて助け出すことのできなかった申し訳なさ、無念さ。さらに、時間に追いつかない人智の限界。突然の地震で生命を落としていかねばならなかった人びとの悔しさ、悲しさ。そういうものの総体を背負って、自然に頭が下がったのだと思えてなりません。
 偲ぶとは、その方を訪ね問い続けることですが、それは本当に出遇うということでもあります。そして、本当に出遇うとは、教えられたことの大きさと、それにくらべてその方のためにできなかったことの多さの谷間に気づいていくことなのではないでしょうか。
 ひとを本当に偲んだとき、私たちは申し訳なさの海の前に立たされます。申し訳なさの海の前に佇むと、深い感謝の念がおのずと心に広がります。
 両親を失い、身をかけて私を育ててくれた親を偲ぶとき、そのことを実感しています。

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