今月の法話 2008年6月

笑ったときも 泣いているときも いつもよりそう ほとけさま

 現代人のものの考え方の主潮は、二元論的色彩に傾いているといえます。二元論とは神と世界、精神と物質、本質と現象など対立する二つの根本原理を立ててものごとを理解しようとする方法です。この考え方はひとつの潮流に過ぎないのだということさえ忘れられているほど、二元論が幅をきかせています。
 特に西洋思想はこの二元論が主流で、哲学の世界ばかりではなく、政治も経済も教育も二元論を主軸につき進んで来ました。それが成功したかに見えたのですが、二十世紀後半になって、歩んできた道にほころびが見え始めました、そして、二十一世紀になった現代、その矛盾がいよいよ顕著になって人びとを苦しめるようにまでなっています。
 ひとが集まると最近の話題は何といっても「後期高齢者医療保険制度」の問題です。私も「前期高齢者」に入っているせいもあるのかもしれませんが、この制度を喜んでいるひとの声を聞いたことがありません。七十五歳でバッサリ線引きされた人びとの声は怒りと悲しみばかりのように思えてなりません。
 「七十五歳以上になったら、早く死ねと国は言うのか!」
 そんな憤りとも嘆きとも悲しみともいえないことばを随分聞きました。それは、「普通の願い」が政治に届かないという無力感が底流にあるのではないかと私には思えるのです。ほんの十年前に「百年安心」と喧伝された年金制度が破綻し、老後の生活設計が大きく狂わされた人びとは多いはずです。破綻の主たる原因が無責任な政治と特権意識をもった官僚の運用にあったと知っても、庶民はどうすることもできません。ボディブローのように年金問題が不安を募らせているところに、「後期高齢者・・」という問題は、先行き不安のダメ押しをしたと私には思えてなりません。
 でもここでちょっと立ち止まって考えてみたいと思うのです。それは、このような問題が唐突に出てきたのかということです。こういう問題が起きる根本のところに、私たちが良しとしてきた「二元論的人生観」があるのではないでしょうか。すべてを対立の中で見ていく世界観、すべてを分けて考えなければ理解できない二元論的思考回路、ここをなんとかしなければにっちもさっちもいかないところに来ているのだと思えてなりません。
 その意味においても二十一世紀を救うのは仏教だと思うのです。二元論の対立の世界を超えて、一如の世界が説かれてきた仏教こそ、この行きづまりを切り開くものであると期待を寄せる人びともおられます。しかし、いまのままの仏教でいいとは思えません。再生された仏教が世界を変革させていく可能性をもつと思うのです。
 では、なぜ仏教にその可能性があるのでしょうか。それは、仏教の説く「救い」に大きく関わっています。仏さまの救いは、実は「くもの糸」の救いではありません。救う者と救われる者が対立的に、あるいは二元論的にいるのではありません。救うものの中に救われる者があるのです。
 「たすけてください」と頼んで仏さまは私たちを救ってくださるのではありません。泣き、笑い、苦悩し、喜び、つまずきながら生きる私たちの全人生に寄り添ってくださっている仏さまが、阿弥陀如来です。信じようが信じまいが私を心配し、逆に私を信じてくださっている如来に私はすくわれていくのです。この仏さまこそ、世界をすくう力なのだといただくばかりであります。

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