自己のおろかさも 自分の大切さも 気づかせてくださる お念仏
自己評価ということばがありますが、私が私をどのように見ているかと思うとき、その尺度の違いによって見え方が違っていることを念頭に置かなければなりません。そして、他人を見ているときと、自分を見ているときの尺度も違ってはいないでしょうか。
他人のことについて私たちはよく気がつくものです。それも、悪いところは。
「あんなことしなければいいのに」
「だから、あいつは人に信用されない」
厳しい目でひとを見て容赦なく判定していきます。同じ目で見ているように思っても、自己への眼差しは相当甘くなってはいないでしょうか。
「あのときは、ああするより他なかった」
「ああ言ってしまったけれど、気持ちはわかってくれるはずだ」
弁解や言い訳もまじって、素直に自己の欠点や失敗を認める気にはなれないものです。
自己を見るときも、他人を見るときも、同じ尺度で見ることができたら、私たちの世界は随分違って見えてくるかも知れません。
その尺度こそ、お念仏の教えではないでしょうか。私の真実の相を照らし出す鏡といってもいいでしょう。
親鸞聖人は、この鏡に照らし出された自己をどのように見られていたのでしょうか。
「まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと」(『教行信証』信文類)
僧形をして仏道を歩む者において、これほどの厳しさと赤裸々なことばを述べられている方はおりません。
それでは、聖人は私たち人間をどのように見ていられたのでしょうか。
「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ぬたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと。水火二河のたとへにあらはれたり」(『一念多念証文』)
聖人の人間観とは、凡夫観ではなかったかと私には思えてなりません。凡夫とは煩悩具足の存在です。聖人は「煩悩にしばられたるわれらなり」と述懐されています。「いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」とも述べられていて、「われら」ということばはそのことば以上に、聖人にあっては広がりと深さをもって語られているように思います。
いずれにしても、私たちが自己の尺度で自分自身を見つめても、本当の自己を見ることはできません。如来の本願という大いなる鏡の前に立ったとき、はじめて自己の真実の相が知らされてきます。知らされた自己の相こそ「具縛の凡愚・屠沽の下類」としての“われら”であったと、聖人は述懐されます。
『歎異抄』には、次の言葉が伝えられています。
「聖人のつねの仰せには、『弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ』と御述懐候ひしこと」
究極の願いが私にかけられているという実感こそが、あらゆる苦難から立ち上がっていく力となるものでありましょう。かけられている願いに気づくなかで、はじめて私たちは自己の大切さを知らされるように思います。昨今の青少年が起こす痛ましい事件を見るにつけ、思わずにおれません。自他ともに、かけられた願いのまっ只中にいることの気づきを伝えられなかった無力さを。
お念仏とは、本当の悲しみに気づかせ、その悲しみから立ち上がっていく慶びを与えてくださるものであります。
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