今月の法話 2007年4月

かけがえのない一日を 今 生かされている

 貴重な「いま」を生きながら、私たちはこの一瞬をかけがえのない瞬間と思っているでしょうか。「かけがえのない一日」と思ったことはあるでしょうか。
 「かけがえのない」とは、「なくなったとき、かわりになるものがない。なによりもたいせつな。唯一無二の」という意味(『角川国語辞典』)です。かけがえとは、かわりになるものという意味ですから、かけがえのないということは、何にかわってもらいようもないものごとということです。
 それほどに重い感慨をもって生きた一日はあったでしょうか。いまできることを次に伸ばして、「また明日があるから」と自分に言い訳をしたことがどれほどあることでしょうか。けれども、「いま」という一瞬は、「いま」と言った途端に過去に流れていて、既に「いま」ではありません。そのかけがえのない一瞬一瞬の連続の上に私たちの人生は成り立っています。
 そのことが本当に身にしみて感じられるのは、かけがえのない時間が残り少なくなっていると知ったときかも知れません。あるいは、大切なひとを失ったときなのかも知れません。
 ある方が突然亡くなられました。いつものように会社に出勤して、仕事を始めて間もなく倒れて、そのまま亡くなっていきました。脳出血ということでした。茫然自失している家族の方々の表情をいまも忘れることができませんが、時間の流れのなかで葬儀だけは進行していきました。しかし、時がたてばたつほど、伴侶の方は沈んでいくようでありました。夫婦の片方が亡くなるというのは、こんなに喪失感の深いものかと私はある意味で、感動さえしていたのでした。
 ところがある日、この方と話しているときに、たまたま最期の朝のことをポツリと漏らすようにつぶやいたのです。出勤前の忙しいなかで夫婦喧嘩になり、罵声を浴びせ合って出勤して行ったということでした。それが文字通り最後の別れとなってしまったのです。夫に浴びせた最後のことばを思い、この方はご自分を責め続けていました。
 「あんな醜いことばを投げつけるんじゃなかった。本心で言った訳ではないのに」
 幾度もそう思ってきたと述懐されました。元に戻ることのない宙に放った〝わがことば〟に苦しんできたのでした。でも、ようやく苦悩の核心を表に出すことができるようになったことを私は歓迎しました。そして、向き合っていると堰を切ったように、これまでのつらかったできごと、苦悩と不安をとめどもないほどに語り始めたのでした。
 それらの話を通して、私たちは二度と繰り返すことのできない「いま」の大切さをかみしめていました。それからこの方は少しずつ明るさを取り戻しているように思えました。
 しかし、実は「いま」この一瞬の大切さをさらに教えてくれるできごとが起きてしまいました。その半年後に、この方は亡くなっていかれたのです。肺がんを患っていたのでした。悲しみのなかで息子さんが私への最後のことばを伝えてくださいました。
 「間に合ってよかった」
 この短いことばのなかに込められた感慨の深さを思い、涙せずにはおれませんでした。
 かけがえのない「いま」、かけがえのないひと。私にとって、私のいのちはかけがえのないものです。そのいのちを、かけがえのないものとして包んでくださっているはたらきがありました。南無阿弥陀仏のはたらきであります。

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