今月の法話 2007年3月

あかるく あたたかく なごやかに

 ギスギスした世の中になっています。トゲトゲしいことばが飛び交い、凶悪な事件も後を絶ちません。人びとの心も、どこか荒んだものになったと感じているのは、私だけでしょうか。
 「人生は苦なり」とお釈迦さまは言われましたが、この事実から逃れられないとしても、できることであれば「あかるく、あたたかく、なごやかに」生きたいものです。けれども、そうならないのはどこに問題があるからなのでしょうか。
 その要因の一つに、私たちの心に余裕が失われたことがあげられるように思います。余裕というと、非常に抽象的ですが、古来から言われてきた「間」とか「遊び」というのは、余裕から生まれてきたものといえるように思います。
 私は車を運転するのですが、車のハンドルには必ず「遊び」の部分があります。遊びのないハンドルは危険です。逆に遊びがあり過ぎても更に危険です。マニュアルの車のクラッチにも適度な遊びが必要です。
 お話をしていても、ことばとことばの「間」が、ことば以上に相手に心を伝えていくということがあります。一方的に話す講演などでも、この間というものが非常に重要です。
 国会中継などを見ていて、原稿を棒読みで読む演説と、ことばにつまりながらでも普通のことばでの演説とでは、こちらに伝わってくるものがまるで違ってきます。その違いはどこから来るのでしょうか。それは、間から来るのではないかと思います。
 座談をしていても一方的にしゃべりまくる人がいます。吐く息、吸う息がことばになるのかと思うほど、こちらに息も継がせぬほどにしゃべりまくるひとのお話は、終わってみたら、案外心に残っていないものです。
 人生における「間」・「遊び」というものは、一見無駄なことに思えるのですが、より一層そのはたらきを生かす重要な契機になっていることがわかります。
 大乗仏教は「転の思想」であると言われた方がいます。仏教とは、この私が仏になる、さとりを開く道を示している教えです。さとりを開くには、煩悩(自己中心の迷い)を断ち切らなければならないといわれてきました。そのための修行を釈尊は示されてもいます。
 ところが大乗仏教は、「不断煩悩得涅槃」と説いています。「煩悩即菩提」「悪を転じて善となす」など、本来断ち切らなければならないと説かれてきた煩悩を、断ずるのではなく転ずるのだと説かれるようになりました。
 親鸞聖人もその著作の中に、「転」ということばを使っていらっしゃいますが、この転を「休息に名づけたり」と解釈しています。転とは、休息だというのです。
 休息とは、いままでしていたことを一旦置いてみるということです。
 順風満帆の人生を歩むことのできる人はほとんど存在しないでしょう。傍目には、何事もないように見える人でも、内側にはさまざまな苦悩や不安、怒り、悲しみを抱えて生きているものではないでしょうか。
 そういう私たちが「念仏申す人生」を歩むとはどういうことでしょうか。
 ありがたいからお念仏を称えるのではありません。情けなくても、腹が立っていても、悲しくても、腹の立つまま、悲しみのままにお念仏を申すのです。そこに、転ずる世界が開かれて参ります。

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