今月の法話 2007年2月

生まれてきてくれて ありがとうと言える 言われる わがいのち

 いま生きていることを、当たり前と思いますか?それとも、不思議と思いますか?
 「俺のいのちは俺のものだ。どうしようが俺の勝手だろう。余計なお節介はしないでくれ」
 何かの折に、思わず口をついて出たことはないでしょうか。あるいは、誰かに似たようなことを言われたことはないでしょうか。これは、ある意味で最後の捨て台詞かも知れません。「俺のいのちだ。勝手にさせろ」と言われたとき、ひとは一瞬たじろぎます。そして、怒りにかわったり、無力感に襲われて、黙りこんでしまいます。それでもなおかつ、「何を言うか!」と向かっていくひとは、本当に相手のことを思っている人でしょう。
 ところで、「俺のいのちは、俺のもの」でしょうか。唯一の、しかも誰にも渡したくない筆頭にあるものこそ、「いのち」です。しかし、このいのちを自らの思いで作ったという記憶はありません。気がついたら生まれていて、生きていたのです。
 「頼みもしないのに勝手に産んで、ああしろ、こうしろと親は好きなことを言う!」
 たいていのひとは、似たようなことを言いながら親に反抗しています。私も一時、得意になって親に言っていたことがありました。言われたときの親の表情のなかに出たたじろぎ、当惑、困っているものを敏感に感じとって、そこを攻め所としたのです。そんなことを繰り返していたときに母が私に言いました。
 「母さんが若いときにね。赤ちゃんが欲しい欲しいと思っていたときがあったの。そうしたら、お腹の中で生まれたい生まれたいと言っているいのちがあることに気づいてね。それを大事に育てていたら、あんたが生まれてきてね。母さんも産みたいと思っていたけれどもね、あんたも生まれたいと必死に訴えていたんだよ。両方の願いがかなって生まれてきたの、あんた忘れたのかい?」
 そのような記憶がある筈もなく、たじろぎ、戸惑うのは今度は私の方でした。でも、それからそういうことを言わなくなったことだけは確かです。小学生の頃のことでした。
 いのちが粗末に扱われ過ぎています。ほとんど毎日、この狭い日本でも殺人事件が起きています。みずから生命を絶つひともまた年間三万人を大きく超えています。なぜ、こうなってしまったのか、その背景を私たちは静かに考えていかなければならない状況にあるように思います。
 現代人の生命観のなかにいつの間にか入り込んできたものに、「いのちの所有意識」があります。かつては、いのちは「授かりもの」でありました。しかし、現代の人びとは授かりものという意識を、いのちに対してほとんど持っていません。
 「子どもは何人ほしいですか?」
 「二人は作ります」
 こんな会話が結婚式などのときに交わされています。わが子のいのちさえ、「作りもの」と考える時代を私たちは生きています。「私が作ったんだから、私の勝手」と子どものいのちへの所有意識さえ見られる風潮があります。
 余命を宣告され、いのちを切られた友人が遺したことばです。
 「“ただ長生きするだけではつまんないよねえ”って言う子いるけど ハアーッ
 お前らこれまで何年生きたんだ? 授かった命を大事に大事に少しでも長く扱って長生きしなければだめだよ。棺おけに腰まで漬かって実感したよ」
 いのちと引き換えに、いのちをいただいたことばと私は受けとめさせていただきました。

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