背を向けようとする私の傍らにあなたは立っている
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
(意訳:阿弥陀如来が、五劫というとてつもない時間をかけてご思案して起こしてくれた「一切の生きとし生けるものを救う」というご本願をよくよく考えてみると、ただひとえに私、親鸞一人を救わんがための願いであった。多くの罪業を抱えたこの私を救わずにおれないと思い立たれた阿弥陀如来のご本願が、誠に有り難くかたじけないことである。)
親鸞聖人は鎌倉時代の混迷の世を生きた方です。妻の恵信尼さまは娘・覚信尼あての手紙に「あなたの父は観音菩薩の生まれ変わりのようなお方」と伝えています。この事からしても、親鸞聖人は人格高潔なお方であった事がうかがえます。そのような親鸞聖人が、「愚禿悲嘆述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)」という和讃で自らの罪業性を厳しく問う数々の和讃をおつくりになっています。その一つが
浄土真宗に帰すれども 真実の心は有り難し
(浄土真宗に帰依しても 真実の心をもつのは難しい)
虚仮不実のわが身にて 清浄の心はさらになし
(嘘偽りで不実な私 清浄の心はさらに無し)
というものです。
いかがでしょうか。妻が娘に「あなたの父は観音菩薩の化身」と言わさしめるほどの高潔なお方が、自らを省みてこのようにお述べになっておられるのです。只々、脱帽としか言葉が出てきません。
その親鸞聖人は一方で次のような和讃をお創りになっています。
罪障功徳の体となる 氷と水のごとくにて
(私の抱えている罪障がそのまま阿弥陀仏の救いとなる それは氷と水のごとくである)
氷多きに水多し 障り多きに徳多し
(氷が多いとそれが溶けたならば水は多いように 罪障が多ければ阿弥陀仏の救いの徳もまた多いのである)
「高僧和讃」
縁(条件)が整ったならば、何をしでかすか分からない私達です。今現在、法衣を身にまとっているこの私も日本人ではなく、ロシア人に生まれていたならば、銃を持ってウクライナ人と戦場で対峙していた事でしょう。
仏教でいう「罪の自覚」とはこういう事を言うのだと親鸞聖人は教えて下さっています。そうした罪障を抱えている私こそが「救いのめあて」であったとは…。親鸞聖人は深い感動と共に述懐されたのが冒頭の「…本願のかたじけなさよ…」、という御文だったのだと思います。親鸞聖人のみ跡を慕う、とは…。
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