私が願うのでなく 仏様に願われている私

無病息災・合格祈願・良縁祈願・家内安全・豊作祈願・大漁祈願・開運必勝…。ある浄土宗寺院の前を通りかかった際に、このようなありとあらゆる祈願が寺院の看板に書かれているのを見てとても驚いた事がありました。というのも仏教、なかんずく浄土教と呼ばれる浄土宗や浄土真宗はこうした現世利益と言われる祈願はその教えには無いからです。
宗教に無関心な層の多い日本人にはこうした現世利益をする事が宗教であり、神道もそうした仏教も皆同じように感じている方が多いのではないでしょうか。
他人の為に祈願する人はおりません。自分のために祈願をするのです。そこに「自分だけがいい思いをしたい」という欲深な心のあり様が見えてきます。
「経教(きょう)はこれを喩(たと)うるに、鏡のごとし」という、昔中国におられた善導大師というお坊さんのお言葉があります。お釈迦さまの説いた教えをまとめた経典(お経)は喩(たと)えていうと鏡であるというのです。私達は鏡を見て自分の顔や姿を整えていきます。化粧はきちんとなされているか。髭(ひげ)や髪(かみ)はどうか。ネクタイは曲がってないか。そうして身なりを整いて参ります。一方、私の心の中はどうでしょうか。自分で自分を見つめても「私は正しい」、という事にしかならないのが関の山ではないでしょうか。自己中心的な欲望に振り回されている自分の心は見えてはいません。
親鸞聖人は阿弥陀さまの教えを、終生自分の心の鏡として生きていかれた方でした。その親鸞聖人がおつくりになられた和讃の一節が
悪性さらにやめがたし
(煩悩に取りつかれた私はそこを離れることが出来ない)
こころは蛇蝎(だかつ)のごとくなり
(私の心は蛇(へび)や蝎(さそり)のようなものである)
と、阿弥陀さまの教えと言う鏡に映っている自分の心を嘆いた言葉でした。
建立無上殊勝願(こんりゅうむじょうしゅしょうがん・阿弥陀さまはこの上も無く、殊(こと)さらに勝れている願を建てた)。
「こころはのごとくなり」という生き方を離れることの出来ない私達のために立ち上がり、「あなたを必ず救う」という願いを建てられた仏さまが阿弥陀さまです。阿弥陀さまの心の鏡をいただき、嘆かざるを得ない私の姿に気づかされたからこそ、阿弥陀さまの願いを至高の願いとして、その願いを人生の灯火として生きていかれた方が親鸞聖人でありました。
“願いごと”に生きる私から“阿弥陀さまの願い”に生きる私になっていきませんか。
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