あるものは当たり前 ないものは不足を嘆く
お釈迦さまのお言葉に、「田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛馬などの家畜類や、金銭・財産・衣食・家財道具、あればあるにつけて憂いはつきない。また、田が無ければ田を欲しいと悩み、家が無ければ家が欲しいと悩む。無ければ無いにつけて、またそれらを欲しいと思い悩む。たまたま一つが得られると他の一つが欠け、これがあればあれが無いという有様で、つまりは、全てを取りそろえたいと思う。そうして、やっとこれらのものがみなそろったと思っても、それはほんの束の間で、すぐにまた消え失せてしまう」(大無量寿経 下巻)というものがあります。
私は折に触れてこの言葉を思い起こし、自分の生き方を恥じることです。様々な物を手にしたにもかかわらず、その事を「当り前」と思い、今ある物への感謝を忘れた日暮らしをしています。また「あれが欲しい、これが欲しい」と思う事もしきりです。私はある楽器を弾きますが、楽器を思う心にそれは如実に表れています。まさに先ほどのお釈迦さまのお言葉のような生き方を離れえぬ私の生きざまがそこにあります。
そうした自らの愚かさを、お念仏の教えを通し徹底的に嘆かれた方が私達浄土真宗の宗祖である親鸞聖人でした。お念仏の教えに遇えば遇うほど自らの愚かさに気づかされていく。その絶望を感じたからこそ、親鸞聖人はこの自分こそが阿弥陀さまの救いの目当てだったという歓びをいただかれたのでした。
一般的には絶望と歓喜というのは対立的概念として存在すると思います。しかし、宗教、とりわけ浄土真宗にはその対立概念が別々ではなく、一つの事として語られるのです。絶望の淵に立たされた者を救わんとして、法蔵菩薩が阿弥陀さまになられ、「苦悩するあなたを捨てたまわず」として、この私を苦悩の世界から解放して下さるのです。阿弥陀さまとはそのはたらきを名付けたお名前なのです。
如来の作願をたづぬれば
(阿弥陀様が、「あなたを救う」という願いを起こされた理由をたずねると)
苦悩の有情をすてずして
(苦悩する全てのものを捨てたまわず)
回向を首としたまひて
(阿弥陀さまの功徳を私に回し向けることを第一に考えて)
大悲心をば成就せり
(私を苦悩を解き放つという大きな慈悲を完成されました)
『正像末和讃』
どうぞ、朝夕のお参りの折にこのご和讃をお読み下さればと思う事です。
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