今月の法話 2010年7月

悲しみに出遇い流した涙が 気づかせてくれる 命ある今日

 私たちは人生の中で、多くの人たちの死と出合い、そして別れの悲しみに会わなければなりません。そんな時、親しい人の死ほど、なぜ死んだのか、何かできなかったのかというような無念の思いを強くするものです。しかし、そのとき死を避ける事ができたとしても、その人は決して永遠に命在る訳ではありません。どれほど長生きをしても、いずれ死んでいかなければならないのが、命在る私たちの姿です。そしてまた、その死は他者だけのことではなく、他者の死を思うこの私の上にも間違いなく起こることでもあります。このことは、誰もが頭で理解し、分かっていることではありましょうが、現実の思いとしては、死ぬのは他者で、私はまだまだと思って生きている人がほとんどでしょう。しかし、この私も間違いなく死んでいくものだという現実の姿を教えてくれるのが、愛する者の死でありましょう。なぜ死んだのだ。ではなく、死ぬ人生を生きていたのだ。そして、その死ぬ人生をこの私も生きているのだと。
 数年前にお父様をなくされた方が、こんなことを話してくれました。「自分が親の年まで生きられたとしても、あと何年あるだろうと考えてみました。すると、これまで過ごしてきた人生の長さより、はるかに短い人生しか残されていないことに気付かされました。それを考えると自分の命の大切さを思わずにはいられません。」と。愛する者の死は本当に悲しいことです。しかし、その愛する者の死によって、死ぬ人生の中に生かされている、大切な私の命であったことにも気付かされます。

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