煩悩を抱えた心に ご信心の花が咲く
蓮(はす)はインドが原産地です。高原のような涼風が吹く清らかな水の中には咲く事はなく、ドロドロとした湿地の泥池に咲く事で知られています。人間社会もまたそうした泥池のような世界といえるのではないでしょうか。仏教には十悪という考えがあります。
殺生(せっしょう 生き物を殺す)
偸盗(ちゅうとう ぬすみ)
邪婬(じゃいん よこしまな性の交わり)
妄語(もうご ありもしない事を言う)
両舌(りょうぜつ 二枚舌)
悪口(あっく 人の悪口)
綺語(きご お世辞)
貪欲(とんよく むさぼり・我欲)
瞋恚(しんに いかり・憎しみ)
愚痴(ぐち おろかさ・真理に対する無知)
さて、あなたはいくつ思い当たりますか⁈私はというと…、やはりいくつか当てはまります。もちろん殺人は犯したことがありませんが、蚊をつぶしアリを踏みつぶし、生きのいい魚を刺身としていただいていますし、怒り憎しみが沸き起こった事もあります。悪を悪と知りながら止めることが出来ないところに人間の悲しさや限界があります。仏の世界に背を向けて、いや背を向けている事さえにも気づかず、そうした生き方を良しとしながら生きることを仏教では「罪」であり「迷い」と考えます。
阿弥陀さまのお姿を拝見しますと蓮の台座の上にお立ちになっていて、右足を少し前にした前傾姿勢である事が分かります。それは「罪を抱え迷いの中にいるあなたを捨てない」というお姿なのです。
お正信偈に
一切善悪凡夫人(善人であろうと、悪人であろうと、一切の凡夫が)
聞信如来弘誓願(阿弥陀如来の広大な誓願について聞信するならば)
仏言広大勝解者(釈尊は、それらの人を広く勝れたものの見方をする人であると言い)
是人名分陀利華(これらの人を分陀利華(ぶんだりけ)と名づけられた)
とあります。
分陀利華とは元々インドで白蓮華の事でプンダリーカと呼ばれており、中国で漢訳されこうした文字になりました。インドでは蓮は珍重されその中でも白蓮華はさらに貴重な事から転じて、優れた人を指す言葉として用いられるようになりました。
自分の力では十悪という迷いの世界から抜け出すことが出来ない私達が、阿弥陀さまの「煩悩に沈むあなたを決して捨てない」という大悲大願に出遇い、ものの見方が少しずつ変わり、十悪を厭う(いとう)身になっていく、そうした心の在り様を浄土真宗では信心といいます。阿弥陀さまに背を向けた日暮から阿弥陀さまをみつめる日暮へ、浄土へ連なる日暮へと転換せしめられていく人生を賜わるのです。しかもお釈迦さまはそのような人を分陀利華とほめ讃えておられます。
印刷用PDFファイルはこちら
PDFファイルをご覧いただくには、Adobe Reader(無料)が必要です。ダウンロード