宗教一般で言うと「神仏を信ずる側の方に信心はある」という事になります。一方、親鸞聖人のお勧め下さっている信心は「阿弥陀如来からいただく信心」なのです。どこまでいっても「自分が自分が」という我への思い(我執・妄執)を離れることの出来ない私達には、神仏を信じぬくということが出来ないとみられた阿弥陀如来から「信心をたまわる」のです。
サンスクリット語というインドの古い言語に「チッタプラサーダ」という言葉があり、信心の原語で「心が澄んで清らかになる」事を意味します。大雨が降ると川の水量が増えて水が濁り、川の中が見えなくなります。水量が落ち着き元の状態になると、川の中が見えてきて魚が泳いでいる、石があるという様々なものが見えてきます。今まで見えなかったもの、気づけなかった事に気づかされる、そうした状態を〝信心〟といい、〝目覚め〟と言うのです。
私事で大変恐縮ですが、このように書いてきて思い当たる経験があります。うちのお寺は私が開基住職で創建されてから三十八年が過ぎました。四十年前に土地を購入し、狭いながらも伽藍を建てることが出来ました。当時、「皆さんのお陰です」と口では言いながら、念願だった寺院建立を果たした私の心の中は驕りの気持ちで一杯だったのです。その姿こそがまさに
「邪見憍慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)
(邪見憍慢の悪衆生)」
「信楽受持甚以難(しんぎょうじゅうじじんになん)
(信心を頂くことは甚だ難しい)」
親鸞聖人/正信偈
両親から命をたまわり、育てていただき、周りに良くしてもらいながら、邪見と驕慢の世界にどっぷりと浸っているお粗末な私の姿だったのです。仏教ではそのような存在を悪人というのです。しかしそうした悪人が心配で心配で「必ず救う」という願を建て(本願)、いつでもどこでも私達を無限の光で照らし続けている方が阿弥陀如来という仏さまでした。
「極重悪人唯称仏(きょくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
(極重の悪人はただ仏を称すべし)」
「我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
(我またかの摂取の中にあれども)」
「煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
(煩悩のために眼を障へて見えなくともり)
「大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
(阿弥陀如来の大悲は倦(う)む事なく常に我を照らしている)」
部屋の塵や濁りは暗闇の中では見えませんが、朝が来て陽が差し込むことによってさまざまなものが見えてきます。阿弥陀如来の大悲の光を私の煩悩の心が見えなくしていますが、そんな私であっても阿弥陀は倦(う)むことなく私を照らし続けて下さっていました。そのはたらきを通して私の驕っている心と、一方で寺院建立までいただいた大いなる支えとご縁に気づかされた事でした。それまで気づかなかった事に気づかされた私でありました。
「実るほど 頭(こうべ)の垂れる稲穂かな」…。実りを穂の中に蓄えれば蓄えるほど稲穂の頭が下がってまいります。私達もまた信心をたまわり、自分の愚かさに気づかされ、自分を育んで下さる大いなる世界(阿弥陀如来の大悲)に気づかされながらの人生を心豊かに南無阿弥陀仏と念仏を申し、頭を垂れる人生を歩んでまいりましょう。
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