皆つながっている 一人じゃない私のいのち

5年前の2020年1月、「新型コロナウィルスの感染」という耳慣れない言葉がメディアに出て、私は「そのうち収まるだろう」とたかをくくっていましたが、感染拡大は収束するどころか拡大の一途をたどりました。感染を防ぐために様々な行事は次から次へと中止。人と会うこともままならない日々が続き、多くの人がストレスを抱え孤独を感じる日々が続きました。
文明の発達や核家族化により人々の孤立感は深まっていると言えます。ある大学の相談室には多くの学生が訪れるそうですが、相談内容で多いのは家族の事だそうです。「うちの家はホテルのようです。皆がそれぞれ自分の好きな時間に好きな物を食べて部屋にこもってしまう」。個食とか孤食という現象が進んでいるのがうかがえます。
ラインやX(旧ツイッター)、ユーチューブ等のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は、広範な広がりをみせています。浅く広いつながりはあるものの、人間と人間が言葉を交わして深く触れ合っていく本来の関係性とは様相を異にしていて、かえって孤立感を深める場合もあります。
また、老いていくという事も孤独を感じる場合があります。周りの話についていけない、時代に取り残されている感じがする。ましてや病床に伏しているときはそうした思いをより強く感じていくのではないでしょうか。
親鸞聖人もまた、孤独を感じられた方であった気がします。幼い時に母に死なれ、父とも離れ離れ。わずか九歳で仏門にはいり、比叡山の厳しい仏道修行に身を置かれていきました。しかし、自分の追い求める「真(まこと)」を20年間かけても手にすることは出来ず、失意のまま法然上人に出遇われました。それは暗闇に一筋の灯火を見た想いであった事でしょう。
その後も親鸞聖人は流罪(念仏弾圧による)や長男の義絶(お念仏の教えを護るため)など、人生の苦難は続きます。そうしたご生涯にあっても、いやあったがゆえに阿弥陀さまに出遇われた喜びに満たされた人生を歩まれたのでした。苦難の人生、孤独を感じる人生にあってこそ「あなたを必ず救う」と願われた阿弥陀さまのお慈悲を深く喜んでいかれたのだと思います。
「一人居て喜ばは二人と思うべし 二人居て喜ばは三人と思うべし その一人は親鸞なり」
「御臨末の御書(ごりんまつのごしよ)」
阿弥陀さまのお慈悲を喜ぶ時、必ず私(親鸞聖人)がおるよ、という真に心和むお言葉です。私達は決して一人ではありません。孤独を感じた時にこそ、両手を合わせお念仏を称え、阿弥陀さまや親鸞聖人を思い浮かべてまいりましょう。
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